7/15~9/10開催の企画展「天下人の城」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について徹底リポート!

「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜

天下人の城

聚楽第【お城観光ガイド】豊臣秀吉の政庁兼邸宅

更新日:

 

聚楽第のデータ

名称 聚楽第(じゅらくだい(てい))
築城 天正14年(1586)~文禄4年(1595)
スタイル 平城
城主 豊臣秀吉・豊臣秀次
歴史 関白となった秀吉がその政庁・公邸として築いた城。
天正14年(1586)2月着工、翌年9月には秀吉が大政所・北政所とともに盛大な行列で大坂城から移った。
天正16年(1588)4月14日~18日の五日間、後陽成天皇の聚楽第行幸が執り行われた。臣下の邸宅への行幸は永享9年(1439)の後花園天皇の足利義教邸(室町邸)行幸以来、151年ぶり。
四国・九州を平定し、関白・太政大臣の地位を手に入れた秀吉が、名実ともに天下人としての地位を固めたことを象徴するイベントであり、聚楽第はその舞台装置として築かれたといっても過言ではない。
天正19年(1591)に甥の秀次に関白の地位ととともに譲られたが、秀次事件後に徹底的に破却。
特長 聚楽とは「長生不老の楽しみを聚(あつ)」めるという意味。「じゅらくてい」とも読む。

町名
主計町(加藤清正)、如水町(黒田如水)、小寺町(小寺孝高)、飛騨殿町(蒲生氏郷)、浮田町(宇喜多秀家) など

石碑
「黒田如水邸跡」(一条通猪熊西入ル如水町)
「千利休居士聚楽屋敷跡」(蔀屋町通一条上ルの清明神社内)
「諸侯屋敷・一条下り松遺跡」(一条通堀川東入ル) ほか

 

入場時間:料金 なし。市街地化され、見学地は一般住宅地等になるため交通往来やマナーに注意、配慮してお願いします。
アクセス情報 市営地下鉄今出川駅下車、南西へ徒歩約1.3キロ
西陣ハローワーク「聚楽第址/此付近 大内裏及聚楽第東濠跡」の石碑(ハローワークの道を挟んだ北向側)
…市バス大宮中立売下車すぐ「此付近 聚楽第址」の石碑と「この付近 聚楽第本丸西濠跡」の駒札(正親(せいしん)小学校北側)
…市バス智恵光院中立売下車すぐ
参考 情報提供システム フィールド・ミュージアム京都
京都市考古資料館
京都市埋蔵文化財研究所
社団法人京都市観光協会
京都観光Navi

【位置と範囲】

北は元誓願寺通(もとせいがんじどおり)、東は堀川通(ほりかわどおり)、南は押小路通(おしこうじどおり)、西は千本通(せんぼんどおり)を外郭とし、内郭には本丸を中心に北ノ丸、南二ノ丸、西ノ丸の曲輪が築かれていたと考えられている。

しかし、歴史的に重要な舞台でありながら、近年まで特定されず、幻の城とまで言われていたのは、築城から破却までわずか9年あまりしか存在せず、

しかも地上に痕跡をほとんどとどめないほど徹底的に破壊され、そのうえ全面的な発掘調査が不可能であり、部分的な調査のみなので正確な範囲はわかっていない。

その中で、位置と規模を解明するきっかけとなる調査が行われたのが、大宮中立売交差点南西角に立つ京都西陣ハローワークの場所。

平成3年(1991)度の調査で本丸東堀が発見され、堀を埋めた土から大量の金箔瓦が発見された。
これらの金箔瓦は聚楽第本丸に使用された瓦として国の重要文化財に指定される。

これが、確実な遺構が発見された最初の事例であり、ここから復元研究が進展した。

ハローワークの建物の西端から大宮通を挟んで東側に立ち並ぶ民家の裏側までが東堀の範囲と推定され、その幅は約40メートルで「兼見卿記」(天正十四年二月二十四日条)に記載された「堀幅口廿間」と一致する。

最近の発掘調査では、平成24年(2012)本丸南端の石垣が発見された。その場所は、智恵光院通と上長者町通の交差点の南東にある京都府警本部西陣待機宿舎の南端である。この南にある辰巳児童公園の大半が本丸南堀にあたる。発見された石垣は東西方向に約32メートルにわたって確認されている。

現在、この石垣は建物の下に埋め戻されてしまっているが、智恵光院通沿いの敷地内に案内板が設置されている。
これら数多くの発掘調査の成果をもとに「駒井日記」などの史料や「洛中洛外地図屏風」(「京都図屏風」)などの絵画資料を総合的に検討した結果、聚楽第の堀と各曲輪の位置を推定できるようになった。

「洛中洛外地図屏風」…寛永初年ごろ作られた絵図。破却後も窪地状に残っていた聚楽第内郭の堀が描かれた唯一の地図。
洛中は六五〇〇分の1の縮尺で書かれていて、発掘調査で見つかった堀の位置は絵図とよく一致している。
「駒井日記」…秀次の近臣駒井重勝の日記。聚楽第破却の約四か月前の文禄4年4月10日条に聚楽第の規模が記されている。

聚楽第の本丸・南二ノ丸・北ノ丸・西ノ丸の規模を具体的に記した唯一の史料。

ただ聚楽第を構成する曲輪のうち「北ノ丸」は、文禄2年8月以降の史料に現れることから秀次の時代になってから作られたもので、秀吉の築城時に「北ノ丸」は存在しなかったと考えられている。

【選地と築城の目的】

秀吉築城時の、推定復元される聚楽第の本丸は、一条大宮を北東隅としていたことになるが、一条大宮は平安京大内裏の北東隅でもある。
このことは、聚楽第が、かつて天皇の政庁があった場所に意識して造営されたことを明確に示している。
築城当時の史料には「内野御構」と書かれており、内野とは「内裏のあった野原」という意味の地名である。

「多門院日記」(天正14年2月27日条) 「去廿一日ヨリ内野御構普請」
「兼見卿記」(同年2月24日条) 「内野普請在之」

そして天正16(1588)年、後陽成天皇の行幸を迎え、豊臣政権を天下に宣言する舞台として築かれたのが聚楽第である。

【中立売通と町名に残る大名屋敷】

平安京の正親町小路にあたり、内裏と聚楽第を結ぶメインストリートになる。西側には大名屋敷が並んでいた。
2009年に新潟で見つかった「御所参内・聚楽第行幸図屏風」などにはこの道を通って聚楽第に向かう後陽成天皇の行幸の様子が描かれている。

この通りに面したところで発掘調査を行うと、金箔瓦が大量に出土する。
烏丸通と室町通の間、北側の府民ホールのある場所からは「扇に月丸文」、南側の京都平安ホテル(旧平安会館)のある場所から「五葉木瓜文」の瓦が出土している。
それぞれ佐竹義宣と織田信雄の屋敷が向かい合ってあったのだと思われる。

さらに西、新町通を越えた北側の上京中学校のある場所には「山の字文」と「違い鷹羽文」の瓦、西洞院通を越えた南側には「梅鉢文」の瓦を用いた大名屋敷があり、
前者は浅野長政、後者は前田利家と推定される。

ただこれらの大名屋敷から出土する家紋瓦はすべて天正19年(1590)の京中屋敷替え以後に作られたもので、天正16年(1587)の行幸時の屋敷配置とは異なることに注意が必要である。

聚楽第周辺には家臣たちにちなむ町名が数多く残り、町名が屋敷の位置を正しく伝えているかは検討が必要であるが、いくつか石碑も建てられている。

(いくつかの聚楽第復元案があるが、森島康雄氏の復元案を参考にした。)

まとめ:hokuto

 

天下人の城展で展示されている「聚楽第」関連の展示物

【119】聚楽第図【120、121】聚楽第跡出土金箔押瓦 関白の政庁という名前だけども天守もあった見た目は「城」

【122】前田玄以黒印状 下鴨役者中宛【123】豊臣秀吉朱印状 田中八右衛門尉宛 秀吉みずから聚楽第工事の遅れを叱責

【124~127】聚楽行幸記、家康直筆和歌色紙など 秀吉の聚楽第に天皇を呼ぶ「個人宅への行幸」は天下取りへのビッグイベント

【76】近江国蒲生郡安土城之図

【117】純金天目【118】真珠付純金団扇 天下人の時代は黄金が氾濫した時代

【152】洛中洛外図屏風 【153】二条御城図

■関連記事
読売新聞 図解 天下人の城より
聚楽第 軍事的要素も

関白となった秀吉は天正15年(1587年)に大坂城から聚楽第に移った。「『第』は本来、立派な屋敷の意味で、城という意味を持ちません」と千田嘉博・奈良大学長(城郭考古学)は語る。秀吉は、甲冑(かっちゅう)を脱ぎ捨てて平和を求める公家になろうとしたのだろうか。

ところが、聚楽第は石垣、堀、櫓(やぐら)、天守を持つ最先端の軍事的要素を備えた城だった。「どう見ても城なのにわざわざ第と名乗るところに、秀吉の狙いがあります。それは信長もなしえなかった偉業の実現です」と千田さん。

秀吉が自身の権威付けや政権の正統性を得るために、関白など朝廷の官位を利用したことは知られている。ただ、秀吉が本当にやりたかったことは公家の世界での栄達ではない。真の目的は、全国の大名たちを官位によって序列化し、そのトップの関白の号令で、大名たちを根付いた土地から引きはがし、秀吉の本拠地に集め、住まわせることだったのだ。

織田信長は、小牧山城(愛知県小牧市)で始まる自身の城作りで、城下町を作り、部下たちの屋敷を作った。それでも、同盟する大名の徳川家康を安土城に住まわせることはしなかった。いや、できなかった、というべきかもしれない。

信長以上に版図を広げた秀吉でも、全国の大名たちを下に置くには、城を関白の館「第」と呼ぶことで権威を示す表向きの手だてが必要だったというわけだ。

聚楽とは「長生不老の楽しみを聚(あつ)めるもの」という意味。戦のための城という実態を覆い隠すには、優れた名付けである。ただ、それは関白になったばかりの秀吉にとって、権力基盤がまだ十分ではなかったという一面をうかがわせる。

秀吉は、聚楽第の代わりに新たな「公」の城である伏見城を京都の南に造り、聚楽第は徹底的に破壊した。破壊の理由は、関白職と聚楽第を譲ったおいの秀次が反逆を企てたとして追放、自刃させたためとされている。だが、千田さんは「秀吉は聚楽第という虚構は長続きしないと考え、武家色の強い新たな城に移行せざるを得なかったのではないでしょうか」と推測する。

武士のトップが住む城下に全国の大名たちが屋敷を構えて住むことは当たり前と考えがちだが、それは信長・秀吉・家康が安土城、聚楽第、伏見城、江戸城と、模索しながら「天下人の城」を築き上げていく中で定着していったものなのだ。

写真=「聚楽第図屏風」(三井記念美術館蔵)をもとに再現した聚楽第(富永商太・絵、千田嘉博・監修)

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