天下人の城展で3倍楽しくなる名古屋城の見方
ポイント1 地下には信長が住んでいた頃の古い那古野(なごや)城が眠っている!
地上に痕跡は一切残っていませんが、元服してすぐの若い織田信長が城主を務めていたことがあります。
展示品【7】尾州名護屋慶長以前古図 江戸時代に作られた名古屋城の地下に眠る那古野城の想像イメージ図
ポイント2 復元された本丸御殿の中に飾られていた障壁画は徳川美術館で見られる!
現在の名古屋城本丸御殿(復元)は平成になって造られた建物で、中にある絵画も当時のものではありません。
本丸御殿で空間を見て覚えて、天下人の城展で展示されている本物のふすま絵や天井絵を見て、頭の中で合体させてみてください。
展示品【174-183】名古屋城本丸御殿の障壁画 江戸時代を通じて将軍を2回迎えるためだけの御殿に尾張藩が込めた維持と矜持
ポイント3 天守台の隅の大きな石に文字が刻まれていますので要チェック
天守台の4隅の大きな石に、積んだ人たちが自分たちの名前を刻んでいます。
一番見やすいのは、一度本丸を北に土橋を渡ってみる「北東隅」ですが、実は南東隅にもあります。天守閣へ入るのに夢中で忘れてしまうかもしれませんが、調べてみてください。空襲で焼けたために見にくいですが、四隅のなかで唯一間近に近づける場所なのでわかるはずです。
天下人の城展では、それを拓本にしたものが飾られていますよ。名古屋城で見つけられなくても、ちゃんと見られますね。
展示品【195,196】加藤清正書状 瀧川豊前守ら宛 名古屋城天守台隅石拓本「加 肥後守内中川太良平」天守台の石に加藤家のサインを彫った豪胆
ポイント4 城の上からのパノラマ今と昔
天守の屋上から眺める風景は、江戸時代と現代とはおおきく変わっています。
天下人の城展では、江戸時代のパノラマ絵図が初公開されていますので、今の名古屋城からの眺めと比べてみてください。
展示品【188】金城見通之図 初公開!名古屋城の天守からのパノラマ絵巻
ポイント5 家康が設計しながら断念した幻の小天守の痕跡を探そう
天守閣の見学が終わったら、元の本丸御殿方面へ戻るのではなく、北の裏口から回って帰りませんか?
堀越しに天守閣を見ることができます。
ここで注目してほしいのは、西側の天守台と天守閣のつなぎ目あたり。ちょうど、雨どいの管があるところです。
石垣に「入り口」を埋めたような痕跡がよくみると分かります。
これは大天守と幻の小天守をつなぐための廊下になるはずの部分でした。しかし、名古屋城は台地の縁にあり、地盤が悪いために、幻の小天守をつくる計画を断念した痕跡なのです。
展示品【166】名古屋城普請丁場割図 低湿地の御深井丸は設計者泣かせだった?
展示品【202、203】御天守御修復仕様妻之方ヨリ見渡之図 名古屋城はピサの斜塔?
名古屋城のデータ
名称 | 名古屋城 |
築城 | 慶長14年(1609) |
スタイル | 平城 |
城主 | 今川氏豊(尾張今川氏)→織田信秀→織田信長… 徳川義直(尾張徳川家)
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歴史 | 名古屋城の前身である那古野城は、応永年間(1521〜28)、今川氏親によって築かれたとされ、尾張今川氏の城であったが、天文7年(1538)に織田信秀が城を乗っ取り、勝幡城から那古野城へ、その居城を移している。 (この時の那古野城の中心は、現在の名古屋城二の丸あたりにあったとされていて、説明板が立てられている) |
特長 | その後、那古野城は嫡男・信長に譲られるが、信長が清須城へ拠点を移すと、徐々に存在意義を失い、天正10年(1582)に一時廃城となる。 それから約30年後の慶長14年(1609)、徳川家康によって清須に代わる尾張の中心地として、同地に現在の名古屋城が築かれる。 この時の築城は、主に外様大名による天下普請によって行われ、有名な加藤清正による天守台の普請をはじめ、各所普請が大名の力量や石高によって丁場が割り当てられた。(この時に、大名達が各地から切り出し、運び込んだ石垣の石材には、どの大名のものか、どの作業グループのものかを表す、刻印と呼ばれる様々なマークや字などが刻まれていて、どの大名がどこを受け持ったのかが判る目印しになっている。 この刻印を見て回るのも、名古屋城をまわる楽しみにもなっている)天守や御殿などの作事は幕府によって進められ、天守は延べ床面積で、江戸城や(徳川)大坂城を上回る巨大なものが建てられた。 また、清須城からの移築と伝わる御深井丸・西北隅櫓(清洲櫓)は、三重天守級の大きさで、現存では最大の隅櫓である。 また、縄張りでは、本丸虎口に枡形虎口と角馬出しを合わせる最強の形を採用しただけでなく、それに続く曲輪(西の丸や御深井丸)が、中の曲輪の馬出しとして機能する様に配置され、更に鉄壁の守りを作り出している。 こうして、当時考えられる最強の形を取りながらも曲輪面積は方形に広く取られており、藩としての政庁機能や居住スペースである御殿が無理なく曲輪内に収まっている(同時に広く取られた曲輪は、戦時の増援部隊の駐屯も可能にしている)など、近世城郭として、最強・最高の城といえる。このようにして築かれた名古屋城は、家康9男の義直が入り、尾張徳川家の居城となり幕末まで存続する。明治以降も各地の城が廃城令で取り壊される中、名古屋城は天守や御殿など、本丸を中心に多くの建物や城域が残される事になったが、太平洋戦争の空襲により、惜しくも天守や御殿など多くの貴重な建物が焼失した。 焼失をまぬがれ現存する建物として、本丸の東南隅櫓・西南隅櫓・表ニの門、東ニの門跡へ移築された旧ニの丸東ニの門。 御深井丸の西北隅櫓(清洲櫓) ニの丸大手ニの門などが遺されている。 また、城域内の遺構も、名城公園として保護された本丸、ニの丸だけでなく、官庁街となっている三の丸まで土塁や堀が非常に良く遺っており、名古屋城の規模を感じる事が出来る。 この名古屋城には、金城温古録など江戸時代に書かれた資料や、焼失前の図面や写真が遺されている事、戦争時に御殿内建具が疎開をされていて無事であった事などなど、奇跡的なほど資料が豊富に遺されている。 この事から本丸御殿の復元が平成18年度より進められ、平成30年に完成する予定となっている。 また、戦後に鉄筋コンクリートによって外観復興された現天守閣も、耐用年数、耐震不足などの問題から木造天守への建て替えが検討されている。(天守閣へ登城される方には、是非、加藤清正が築いた本物の天守台にも目を向けて貰いたい。天守閣への登り口付近の石垣は、天守焼失時の熱によって、焼けてボロボロになっているのが判る。石垣の孕みだけでなく、石材そのものにもダメージを残したまま、天守の建て替えを優先して行うのが正しい方法なのか、天守台の横に立ってそれぞれ考えてみてはどうだろう) |
入場時間:料金 | 午前9時~午後4時30分 ただし、天守閣・本丸御殿へのご入場は午後4時まで
観覧料:大人 500円 |
アクセス情報 | 【車をご利用の場合】 名古屋高速1号楠線 「黒川」 出口から南へ8分 名古屋高速都心環状線 「丸の内」 出口から北へ5分 【駐車場について】○正門前駐車場(普通車・大型車・自動二輪車・原付) 普通車・自動二輪車・原付 利用できる日:1月2日から12月28日 利用できる時間:午前8時45分~午後9時30分 収容台数:普通車319台 ※宵まつり期間中は午後10時まで駐車料金案内 区分 単位時間 料金 普通車 30分以内ごと 180円 自動二輪車・原付 30分以内ごと 100円○二の丸東駐車場(普通車) 利用できる日:1月2日から12月28日 利用できる時間:午前8時30分~午後6時30分 収容台数:普通車123台 ※春の陣 桜まつり期間中は午後8時30分まで。宵まつり期間中は午後10時まで駐車料金案内 区分 単位時間 料金 普通車 30分以内ごと 180円【公共交通機関をご利用の場合】地下鉄 名城線 「市役所」 下車 7番出口より徒歩 5分 鶴舞線 「浅間町」 下車 1番出口より徒歩12分 市バス 栄13号系統(栄~安井町西) 「名古屋城正門前」 なごや観光ルートバス「メーグル」 なごや観光ルートバス「メーグル」の案内(外部リンク) 基幹2号系統 「市役所」 下車 徒歩5分 名鉄 瀬戸線 「東大手」 下車 徒歩15分 |
問い合わせ、参考 | 問い合わせ:名古屋城公式ウェブサイト 参考:http://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/ |
まとめ:るーちん