7/15~9/10開催の企画展「天下人の城」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について徹底リポート!

「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜

展示紹介

【124~127】聚楽行幸記、家康直筆和歌色紙など 秀吉の聚楽第に天皇を呼ぶ「個人宅への行幸」は天下取りへのビッグイベント

更新日:

【124】聚楽行幸記 蓬左文庫蔵 後期8/16~
【125】聚楽懐紙草稿 個人蔵
【126】徳川家康自筆 和歌色紙「みとりたつ」  後期8/16~
【127】豊臣秀吉判物 藤右衛門督(高倉永孝)宛 天正十六年 四月十五日  前期8/15まで

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第2章 巨大城郭の時代  四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(三)聚楽第
展示番号124,125,126,127

天正十六年(1588)4月の聚楽第行幸

おいでよ天下人の城展
前の【123】の説明で、秀吉が聚楽第(じゅらくだい)で「やりたかったこと」とはなんでしょうか?
原さん
聚楽第への天皇の行幸(来てもらうこと)を実現したい。

今の陛下はあちこち色んな所へ行かれたりしますけど
それでも今の陛下が決してやらないのは、個人のお宅を訪問するというのは公式にはやられません。
公的な所へは行かれますけど。

おいでよ天下人の城展
確かに、聞いたことありませんね。
原さん

これは戦国時代にあっても、やっぱり凄いんですよ。秀吉の個人の家、関白という政庁ではありますけれど
秀吉が住んでいるわけですから、個人の家である聚楽第に、天皇という帝が臣下の家に行くっていうこと。これは最高権力者でしかやれないことなんですよ。

 

おいでよ天下人の城展
確かに、上司のお宅に招かれることはあっても、上司を家を招くということはあまりないですね。
原さん
個人邸への行幸は古代には、例かあったのかもしれない。室町政権の時にも、室町将軍家邸に御花園帝が行幸になられたという記録はあります。
「天皇の行幸」それは天下人・将軍家・最高権力者のみが許される行為なのです。
おいでよ天下人の城展
朝廷での官位を天下取りに利用した秀吉としては、重要なイベントですね。
原さん
当時の後陽成天皇をいかに自分の館である聚楽第に来させるか。自分たちが行くのはいいんですよ、来させるというのが特異な例なんです。 それをやることによって、まさに秀吉こそが唯一絶対無二の権力者であるということを天下に公言することになる。格好の政治的アピールになるわけです。
おいでよ天下人の城展
なるほど、わかってきました。行幸の重要さが。
原さん
だから次の徳川政権でも、後水尾天皇をいかに徳川の屋敷である二条城(京都)へ迎えるかが、重要なイベントとなるのです。行幸というのはそれだけ威信をかけていたのです。 当然相当なお金もばらまかれ、裏で色んな事もしたでありましょう。わざわざ天皇を迎える為の御殿も作りました。

【124】聚楽行幸記

おいでよ天下人の城展
聚楽第への行幸はうまくいったのでしょうか?
原さん
聚楽第行幸は天正十六年(1588)の4月14日から18日の5日間に渡って行われました。この行幸の記録がちゃんと残りました。
おいでよ天下人の城展
それが【124】聚楽行幸記ですね。
原さん
秀吉の命により右筆(ゆうひつ)・大村由己(ゆうこ)(1536?~96)が書いたものです。

【125】聚楽懐紙草稿

原さん
そこでは宮廷儀式などが行われ、その中のイベントで「歌会」も行われました。
おいでよ天下人の城展
歌会とは?
原さん
参列・列席した方々がそれぞれ歌を詠み、歌の腕前を披露します。一応同じテーマの元でやって、最後「懐紙」という紙にしたためて献上するという行為です。それをまとめたものを「聚楽懐紙」といいます。
たぶん参列した方々の数ぶんあったのですけど、今残っているのはわずかです。
おいでよ天下人の城展
草稿とありますが?
原さん
献上する前の下書きも残ってるんですね。これは一種の下書きです。若干推敲(すいこう)の跡がまだ残っています。この推敲を経た上で、清書して献上するのです。

城が戦闘の場所から政治の装置へと変わっていく

【126】徳川家康自筆 和歌色紙「みとりたつ」

原さん
献上すると、朝廷側に行っちゃうんですけど、推敲した下書きの段階はそれぞれの家に残ります。徳川美術館にも、徳川家康が色紙に書いた短冊が残っています。

「みどりたつ 松の葉ごとに 此君の 千年の かすをちぎりてぞ見る」

原さん
最終的に色紙に筆をとる前に下書きをするのですが、下書きそのものも家康の自筆には違いないですから、そのまま徳川家にとって大切な道具として残されたのです。
おいでよ天下人の城展
家康が筆を舐め舐め考えながら書いていたかもって想像すると面白いですね。
原さん
秀吉の天下を世間に確定するデモンストレーションとしての「聚楽行幸」は、城の機能が防御性や戦闘性よりも政治としての舞台、政治の装置となっていったことを表す一大イベントとなった歴史的な転換点でもあったのです。

【127】豊臣秀吉判物 藤右衛門督(高倉永孝【たかくらながたか】)宛

おいでよ天下人の城展
さきほど、行幸にあっての下準備で、相当なお金が渡されたとのことでしたが、誰に渡すのでしょうか?
原さん
高倉永孝という公家に対して与えた新たな領地に対する保証書です。秀吉は行幸に参列した高倉に対し、近江国高島郡内で200石余の土地を与えています。その理由は聚楽行幸に参列したっていう理由だけなんです。大盤振る舞いなんですよね。

おいでよ天下人の城展
敵の首をいくつ取ったとか、危ない任務をこなしたとかではないんですね。
原さん
実際に秀吉は、高倉だけでなく、8000石相当の土地を用意して、それを公家に分配してるんです。
おいでよ天下人の城展
飲み食いした上に領地ももらえるんですか。
原さん
ちゃんと秀吉のいうことを聞くと、あなた方も得するよと。金で全てを釣るという形なんですけれども、まず財力を見せつける。聚楽第行幸がまさに天下人でないと出来ないデモンストレーションだったということが分ります。

ここで(3)聚楽第のコーナーは終わり、次は清須城へ移ります。

次は【128】織田信雄画像 【129】松平忠吉画像 名古屋の原点「清須城」の城主たち

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第2章 巨大城郭の時代  四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(三)聚楽第
展示番号124,125,126,127

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