尾州名護屋慶長以前古図 徳川林政史研究所蔵
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
展示番号 7番
第1章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
展示番号 7番
現在の名古屋城が築城される前、那古野今川氏や織田信長らが住んだ那古野城の想定復元図。金城温古録に掲載されています。
那古野城の復元図は3種類ありそのうちの1つ。
那古野城は、現在の名古屋城二の丸跡付近(愛知県体育館などがある)にあったと考えられています。
周囲に重臣の屋敷や、名古屋城建築の歳に移転した寺も描かれている。
原図は寛永10年(1633年)に名古屋村の庄屋から出たと記されており、これより古い図、すなわち那古野城が現存した時代の地図であったことを示唆させるものです。
原さん
ただ、確実な記録などに基づくものではなく、実際には寺社の移転記録などを元に作られた想像図と考えられます。
おいでよ天下人の城展
1633年というと、すでに名古屋城が完成してしまっていますもんね。
原さん
名古屋城の二の丸は発掘調査がなされていませんが、三の丸遺跡(城の南側にある官庁街)の発掘の際にいくつかの堀が見つかっており、これらはおそらく那古野城に付属した重臣の館の堀と考えられ、古図の記載と一致します。この古図は、歴史復元画家の富永商太氏の復元イラストとともに展示される予定です。
おいでよ天下人の城展
城郭考古学者の千田嘉博先生が監修し、発掘調査を反映した初めての那古野城の復元イラストですね。
原さん
見てもらいたいのは、那古野城は、後年に信長が作った『求心的、一極集中、権力の象徴的』な城とは異なり、いくつかの館城が複合・連結した形となっているところです。
那古野城の中心部である今川館(那古野今川氏や織田信秀・信長が住んだと考えられる)は、最大規模の郭ではあるが、周囲には独立した形での館城が複数あったのです。
那古野城の中心部である今川館(那古野今川氏や織田信秀・信長が住んだと考えられる)は、最大規模の郭ではあるが、周囲には独立した形での館城が複数あったのです。
おいでよ天下人の城展
三の丸遺跡の発掘で見つかった重臣の館を囲んだ可能性が高い堀のことですね。
原さん
こうした複合・連結した城の在り方は当時の一般的な城の形であり、初期の清須城も同様の形式でした。このような求心性のない城から、信長が行った一極集中の城の形への変遷は、このあとのコーナーでも展示される富永氏の復元図で見て頂くのが分かりやすいと思います。
おいでよ天下人の城展
シンプルなお城ですけど、これが「天下人の城」の原点の城なんですね。よく目に焼き付けておきます!
次の展示は【8】【9】名古屋城三の丸遺跡出土 中国・朝鮮系陶磁器、瀬戸・美濃系陶器 那古野城で暮らしていた武将が使った器
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
展示番号 7番
第1章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
展示番号 7番