御天守御修復仕様妻之方ヨリ見渡之図 名古屋城総合事務所蔵 202と203を前期と後期で入れ替え
第5章 東海の要衝(本館7室②)
(三) 名城修復
展示番号202、203 番
名古屋城はピサの斜塔?天守台は地盤沈下でもろいという宿命
江戸時代の中頃に名古屋城の天守が傾きはじめます。
なぜなら西側の地盤が弱いのでだんだん地盤沈下していくのです。
天守が傾き、すわ倒壊するという事で江戸時代の中頃、宝暦5年(1755)に大修理をしました。
その時の解体図なんですけど、とにかくスゴい事をやるわけなんですね。
建物を建てたまま石垣を外す。
ただ、石垣の負荷になっている部分の(建物の)入側という部分だけは解体するんです。
天守本体を残したまま、石垣を、とくに西側と北側がズンと地盤沈下するんで、そこを一旦外して建物を(真っ直ぐに)立てるんです。
わざわざ天守の中心の柱にロープを張ってテコの原理でグーと引っ張って起こす。
北側と西側にもちゃんと堀の中に足場を組んで足場を確保したという様子が、西側から見た図と北側から見た図が両方あるので、それをお借りしました。
それで、ちゃんと工事が出来てまた元に戻した。
軽減化を図るために、それまで最上階だけだった銅瓦葺きが二重目以降も全部銅瓦にするとかという風にして銅瓦葺きに変わっている。
それで、城の維持にとって一番宜しくないのが、破風ってありますよね。
破風のところに雨が来たら全部水が貯まるんです。
アレだけの巨大建造物に貯まった水というのはスゴい勢いで屋根を傷めるんです。
雨漏りの原因になる。
だから、日本の城で初めて竪樋っていう雨水を集めて下に、堀の中に落とす竪樋を設けたのも名古屋城なんですね。
今でもこの部分はちゃんと復元されているんです。 まぁ復元しないと鉄筋でもやっぱり傷むでしょうから。
そういう修理が行なわれているのです。
【名古屋城特別展(平成25年) 巨大城郭 名古屋城 図録より】
天守修理は西北方向(御深井丸方向)に傾いた天守を起こすのが目的であり、そのためには石垣自体を積み直す必要があった。
まず石垣に荷重がかかっていた天守1階、2階の入側はじめ天守の一部を解体し、負荷を減らした上で、テコの原理を用いて傾いた柱を起こした。
一方で西北部の石垣を一度はずし、勾配を決め積み直した。
また、重みを軽減し手入れの労を減らすため、従来の瓦屋根を初重(1階)以外銅瓦葺きにかえ、木連格子であった破風部分を銅板で覆うなどの細部変更も行われた。
本図面は、この修理過程を天守北側の妻側から見て示す図。
西側(図面上は向かって右)の堀に、長24間 幅4間という大桟橋を渡している。
東側(向かって左)には大五六という巨大な巻き上げ装置を作って天守の柱と結び付け、天守が西側に傾くのを防止した。実際には東側には本丸御殿が建っており、ごく狭い空間の中で作業が行なわれたことになる。
まとめ るーちん
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第5章 東海の要衝(本館7室②)
(三) 名城修復
展示番号202、203 番