【11】十六間筋兜 徳川美術館蔵 前期8/15まで
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
展示番号 11番
第1章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
展示番号 11番
原さん
徳川家康の八男・仙千代が犬山城主となる平岩親吉(ちかよし)の養子となった際に、家康から贈られた兜「十六間筋兜」です。系譜の上では徳川の遠祖にあたる得川義季(とくがわよしすえ)が所持していたとの伝承があり、徳川家では累代相伝の兜として大切にされていたとされています。
おいでよ天下人の城展
仙千代さま、ですか。尾張藩祖の徳川義直さまは9男ですからお兄さんですね。
原さん
しかし仙千代は5歳で夭逝。義父である親吉も嫡男がいないまま死んだため、大名家としては平岩家は断絶となりました。
おいでよ天下人の城展
平岩親吉は義直さまの守役を務めた人ですよね。では兜の行方は?
原さん
平岩家の没落の際に逐電した家臣がこの兜を持ち出して売却したため、(犬山城を管轄する)尾張徳川家はずっとこの兜の行方を探していましたが、寛延元年(1748年)に大和国で見つかり買い戻されたという数奇な来歴を持つ兜なのです。
おいでよ天下人の城展
平岩親吉は1611年に死亡していますから150年ちかくあとになって見つかったということですね。
原さん
ただ、兜の現物を見ると、鉢とシコロを留める穴が合っておらず、兜とシコロは別のものであったと考えられるのです。兜もシコロも古い時代のものであることは間違いないのですが。
おいでよ天下人の城展
えっ?どういうことでしょうか?
原さん
買い戻しの際に、偽物をつかまされた可能性もあります。しかし、尾張藩では「そういう来歴をもつ兜」と伝えており、それも含めて1つの『歴史』なのです。
おいでよ天下人の城展
江戸時代の尾張藩が正式に認めたものですものね。現代の研究によって家康から親吉に渡ったものでない可能性があっても、江戸時代にそれを見つけようとした尾張藩による「歴史の探求の歴史」は否定されるものではありませんね。
用語説明:
一六間筋兜:鉢が16枚の鉄板をつなぎあわせ、合わせ目が筋状で、筋の間が16ある
シコロ:鉢の腰巻から垂れ下がり、後頭部から首廻りにかけてを保護する部分
平岩親吉・ひらいわちかよし[1542―1611]
安土桃山・江戸前期の武将。通称七之助、主計頭(かずえのかみ)。徳川家康と同年の生まれで、幼少より徳川家康に仕え、各地を転戦。家康の長男信康(のぶやす)の傅役(もりやく)となったが、1579年(天正7)信康切腹により一時幽居。1590年上野国(こうずけのくに)厩橋(うまやばし)城主となり、3万3000石を領有した。家康八男仙千代を養子とするが、夭折(ようせつ)。関ヶ原の戦後に甲府城代(領知6万3000石)。家康の九男義直(よしなお)の傅役となり、義直の甲府から清洲(きよす)への転封(てんぽう)で犬山城主(12万3000石、一説に9万3000石)となり、引き続き領国統治。無嗣断絶。(日本大百科全書より引用)
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第1章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
展示番号 11番
第1章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
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