7/15~9/10開催の企画展「天下人の城」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について徹底リポート!

「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜

展示紹介

【174-183】名古屋城本丸御殿の襖絵 江戸時代を通じて将軍を2回迎えるためだけの御殿に尾張藩が込めた維持と矜持

更新日:

いずれも名古屋城旧本丸御殿御成書院
174.二之間東側襖絵 琴棋書画図 175.三之間襖絵「芦鷺瀑辺松樹図」176.二之間襖絵「琴棋書画図(棋)」
177.三之間襖絵「芦鷺瀑辺松樹図」178.一之間天井板絵「猿図」179.一之間天井板絵「松鳥図」
180.二之間天井板絵「牡丹図」181.二之間天井板絵「梅鳥図」
いずれも本丸御殿湯殿書院
182.天井板絵「黄蜀葵図」183.天井板絵「瓜花図」
偶数が前期8/15まで、奇数が後期8/16まで

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第5章 東海の要衝(本館7室②)
(一) 名古屋築城
展示番号174-183番

原さん(小久ヒロ・絵)

174番と175番、そして176以降の天井板。
これは今まさに復元が進んでおります、名古屋城本丸御殿における将軍が上洛する際に泊まる上洛殿のものです。

当時は上洛殿と言わず御成書院と言っていた建物の障壁画と天井板の一部です。

空襲で焼ける前に取り外したおかげで、取り外し可能だった物だけは何枚か残ってはいるわけですね。
すべて重要文化財になっております。

本丸御殿は表書院までは復元され来年までには全建物復元完了ということになるので、往時の規模を実際に体験できると思いますが、これらは取り外した原本ですね。
残念ながら壁に描いた絵とかは、取り外せなかったんで燃えてしまいました。

上洛殿(御成書院)は、三代将軍家光が来る時に特別に作った部分です。

徳川美術館にはちゃんとその時の指示書があって、幕府から
「今回上洛に当たって、特別なことは一切するな、豪華なことはやるな、建物を建てるなんてことはするな。今まである建物で活用しろ」と
幕府の老中から命令が来ているにも拘わらず、
初代の徳川義直はその命令を蹴っ飛ばして あの豪華な建物を作ったのです。

普通だったら幕府法令違反ですけど、さすがにそこは家光のおじである尾張徳川家に対してはなんとも「アレ」だったんですね(笑)

京都の二条城をこえる豪華さを目指す

まさに尾張家に対する威信を示した建物です。
豪華さで京都の二条城(幕府直轄)を上回る御殿を作るという意識があったんですね。

その証拠に絵は天井まであって、折り上げ格天井・総漆塗りの、とにかくここが最高の御殿であるということを示したんです。

家光は行きに泊まったんですけど、帰りは素通りしてしまったんで、あの御殿を家光が使ったのは1回だけ。

その後200年間使われることが無くて、幕末になって十四代将軍家茂が1回使いました。
将軍の為に作った御殿ですけど、将軍が使ったのは2回だけという豪華さ。

東海道、東山道添いの城の真の城主は将軍さま

ここに、尾張徳川家、名古屋のみなさんが誇っていいことがあります。

中山道や東海道沿線の城は基本的には本丸は空いているんです。

みんな勘違いしていますが、あれらの城主は誰かっていうと、そこに居るお城のトップが「城主」じゃないんです。
徳川家の領地の城は、全部徳川家康とその後の将軍が城主なんです。

だからそこに居るお城の方々は、城代でしかないんです。
つまり家康に代わって、城を守っている。

大体、戦国時代見ててもそうでしょ。国境の城には城主がいるけど、国の中心の本拠地の大名の代わりにそこを守れって言われているだけです。

城を築いたのはあくまで家康なんです。

だから本丸っていうのは基本的には将軍様が居る空間。
どこへいっても、東海道・中山道沿線の城を見れば分かりますけど、

江戸時代の藩主の館はどこにあるかっていうと、二之丸にあるんですよ。
本丸は将軍の為に空けとく。これがルール。

名古屋城も一緒なんです。
本丸は将軍上様の空間。

だから藩主は二之丸に居る。二之丸御殿。

木造建物のメンテナンスは大変

それで、本来ならどの城にも本丸御殿があったはずなんです。上洛する時の旅館ですから、一種の。
でも将軍が上洛しなくなった三代将軍家光以降、結局お城の中に御殿があったとしても、いつ来るか分かんないわけです。

でも木造建造物っていうのは、台風とか地震が来たりして傷んでくるんです。
メンテナンスしなくちゃいけない。メンテナンス経費だけでも、べらぼうな金がかかる。

だから適当に火災で焼けちゃったとか、地震で倒壊したとか、台風でぶっ倒れちゃったとか。
それでもう取り壊し。

でも、いつか将軍様が来た時には、その直前に新築の建物を立てれば、そのほうがかえって気持ちいいんじゃないかと、みんなメンテナンス経費のことを考えて、みんな無くしてくんですよね。
だから他の城では全部無くなってくんですよ。本丸に御殿っていうのは。少なくとも譜代大名の城は名古屋以外にない。

でも名古屋城は、いつ来るか分からないけれども、それでも本丸御殿をいつ来てもいいように、ずっとメンテナンスし続けてきた。これが隠れた御三家の意地なんです。

結果として、最後幕末に将軍家茂を泊めることが出来たんですけど、他の城はお城の中に泊められなくて、城下の大きな寺に泊めていました。なんだか本末転倒です。

明治時代に皇族のホテルとして名古屋城本丸御殿は大人気に

江戸時代には2度しか使わなかった名古屋城の本丸御殿です。

しかし、明治以降になって大活躍します。

今と違って高級ホテルがあちこちにあるわけじゃないので、皇族の方々がどこか旅行する時に、泊まるところがなくてはいけない。

そうした時に名古屋には、ちょうどいい、将軍様が泊まったホテルがある。そう本丸御殿です。

そして、そのまま「名古屋離宮」になるわけです。

名古屋離宮として使われた正式な数はしりませんけど、将軍様が使ったのよりはるかに多い…50数回は皇族が泊まられてるのではないでしょうか。

日本で城郭として第一号の国宝に

ただ、やがて西洋風ホテルが出てくると、不便になるわけですよね。
そうして、昭和5年(1930)にもう要らないってことで、特別に御下賜するという形で、名古屋市にあげることになりました。

御下賜頂いた名古屋市は綺麗に整備して、一般の人に公開します。

すると、姫路城よりも早く名古屋城のほうが国宝になりました。

国宝城郭建造物第一号は名古屋城なのです。

こんな逸話もあります。
公開したら金のしゃちほこの鱗(うろこ)が盗まれてしまったのです。

足場を使って修理で(足場を)作ってるときに、夜中に忍び込んで、盗んじゃったようです。

その時、「超」厳戒態勢を敷いて、報道管制まで敷いて、ようやく大阪で換金に訪れた犯人を逮捕できました。
もう鱗から形は変わっていたけれど金の回収もしました。

当時の大岩勇夫名古屋市長は、盗まれたことによって進退伺いを出しているんです。
「陛下から頂いたものを、自分の代でこのように盗まれる失態を犯した」と。

結局犯人見つかったんで、辞任は撤回されたんですけど、そうやって名古屋城は大切にされてきた。
でも、空襲で燃えてしまった。実にもったいないことです。

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(一) 名古屋築城
展示番号174-183番

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