7/15~9/10開催の企画展「天下人の城」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について徹底リポート!

「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜

天下人の城

清須城 信長が下克上を果たした名古屋以前の尾張の首都【お城観光ガイド】

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清須城のデータ

名称 清須城(清州城)
築城 応永十二年(1405)
スタイル 平城
城主 斯波義重…→織田氏[織田信秀→織田信友→織田信長→織田信雄]→豊臣秀次→福島正則→松平忠吉(家康四男)→徳川義直(家康九男)
歴史 応永12年(一四〇五)に尾張国の守護職であった斯波義重により守護所であった下津城の別郭として建てられたのが清須城の始まりとされる。文明8年(一四七六)戦乱により下津城が焼失し、文明10年(一四七八)に守護所が清須に移転することで尾張国の中心地となった。
弘治元年(一五五五)に信長が那古野城から清須へと本拠を移した。この頃の城は、求心性を持たない館城の形式であったと考えられる。桶狭間の合戦への出陣は清州城から行われ、永禄5年(一五六二)には家康との同盟(清州同盟)が結ばれたが、永禄6年(一五六三)に本拠が小牧山城に移って以後は番城となった。
信長が本能寺の変で死去した後、織田家の相続を決める清須会議が行われ、城主は次男の信雄となる、信雄は清州城の大改修を行い、五条川西岸に本丸を置き、本丸の北端に天守を作り、東西1.6キロ、南北2.8キロにも及ぶ巨大城郭の中に城下町を備えた東海屈指の城郭都市となった。その後城主は織田家から豊臣秀次、福島正則と移り、関ケ原の合戦では東軍の最前線の城として重要な軍事拠点となった。関ケ原以降は徳川家の城となり人口6万を数える賑わいを見せ「天下の名城」と讃えられるが、慶長15年(一六一〇)家康による清須から名古屋への遷府が命令されると、城下町を含め城の全機能は名古屋に移り清須城は廃城となった(清須越)。
現在は平成元年に建てられた模擬天守閣があるが、当時の城とは異なる外観である。
特長 現在、城郭は開発によりほぼ残っておらず、本丸の土塁の一部が残るのみである。本丸部分はJRの線路(東海道線と東海道新幹線)が貫いており城の中心部は残っていない。信雄が建てた天守は五条川の西岸にあり、今の模擬天守は位置、意匠、大きさとも信雄時代の天守に基づくものではない。(奈良大学・千田嘉博氏の「信長の城」によるとこの場所は守護代館だったと推定されている)地表から姿を消してしまった清須城であるが、発掘調査の結果、信雄以降の時代だけでなく、信長時代の清須城についても様々なことがわかってきた。
戦国期の清須には五条川東岸の自然堤防上に、幅10メートルの堀を二重に巡らした最大で一辺200メートルに及ぶ大型館城があったと推測される。さらにこの城の南北には、中小の館が群在したことが判明し、室町時代から戦国時代にかけて広く確認できる城下町中心の形態が清須にもあったことが分かった。発掘調査の結果、信長時代の清須城の石垣は発掘されていない。
信雄以降の清須城については尾張藩が江戸時代はじめに詳細な地図を作製しており城と城下の様子がわかる。この地図は天下人の城展でも出品されている(32春日井郡清須古城之図。)周辺の見どころ
清須公園・信長公出陣の像
總見院 「織田信雄」が本能寺の変の焼け跡から探しあてた信長公の兜と伝えられる「焼け兜」がある。参拝には予約が必要。
清須本陣跡
日吉神社 信長が火起請に立ち会ったとされる
入場時間:料金 開館時間:清州天守閣 9:00〜16:30
芸能文化館 9:00〜17:00
休館日 月曜・年末(月曜日祝日・振替休日の場合は翌日)
大人 300円 子供 150円
アクセス情報 名鉄電車 名古屋本線新清州駅より徒歩15分
JR東海 東海道本線清州駅より徒歩15分
城北線 尾張星の宮駅より徒歩20分
名二環 清州東インターより5分
名古屋高速 清州出口より5分駐車場
無料大駐車場
普通車:113台
バス :9台
利用時間 : 9:00~17:00
※「清洲公園駐車場」をカーナビで検索する場合は、清洲公園駐車場横の「清洲総合福祉センター 清洲市一場古城604番地15 電話052-401-0031」で検索してください。
問い合わせ、参考 問い合わせ:清州城ホームページ
参考:清州城パンフレット
歴史人 2017年5月号 (KKベストセラーズ)
東海戦国武将ウォーキング 長屋良行(風媒社)
信長の城 千田嘉博 岩波新書

まとめ:馬渕まり

清州城模擬天守(流星☆撮影)

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