加藤清正書状 牧助右ヱ門・瀧川豊前守宛 名古屋市博物館蔵
名古屋城天守台隅石拓本「加 肥後守内中川太良平」 名古屋城総合事務所蔵
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第2章 巨大城郭の時代 五 東海の要衝(本館7室2)
(二) 清正伝説
展示番号195,196
第2章 巨大城郭の時代 五 東海の要衝(本館7室2)
(二) 清正伝説
展示番号195,196
おいでよ天下人の城展
加藤清正は名古屋城全体でなくとも一部の石垣を造っているのですよね。
原さん
はい、これがその証拠のひとつ。【195】は名古屋城の普請奉行、瀧川忠征に対し清正が何らかの船を用立てたことに対しての礼状です。普請奉行との間で資材輸送に関するやり取りがあったということを示す加藤清正の貴重な資料です。
おいでよ天下人の城展
瀧川忠征さん!関ヶ原で西軍についたのに、城造りの名人だから家康からスカウトされて名古屋城築城担当になったという人ですね。【146】豊臣秀吉朱印状 木全又左衛門尉(忠澄)・滝川彦次郎(忠征)宛 関ヶ原で西軍だったのに家康が許した築城名人
原さん
清正は天守台普請を率先して願い出て、慶長十五年(1610)六月初旬より工事を始め、わずか三ヶ月たらずの八月二十七日には完成させました。驚異的な早さです。
天守台にとんでもないことをした加藤家
おいでよ天下人の城展
名古屋城の天守台という重要なところを任されたとはいえ、それだけで「清正」築城につながるのでしょうか?別に石垣に「加藤清正が作りました」と書いてあるわけではないのに。
原さん
ところがね、おい天ちゃん。それがそう書いてあるのですよ。拓本で写したのが【196】です。
おいでよ天下人の城展
うそ~!?
「加 肥後守内中川太良平」
原さん
名古屋城天守台には堂々と加藤家の家臣達の名前が4隅に、小天守を含め6隅に残っています。それをすべて拓本にとっています。これらの家臣たちは小隊長ですね。拓本の中には2メートルを超える大きなものもあるのですが、美術館の天井からは届かないため、一番小さいものを展示することになりました。
おいでよ天下人の城展
そんな大胆なことをやって、徳川家から工事中に怒られなかったのですか?
原さん
清正は、「朝鮮半島で取得した石積み技術を人に見せないように」との理由で、周りに幕を張って作業を行ったとの記録もあります。
おいでよ天下人の城展
除幕したときに初めて徳川家の人たちも気づいたんですね。その時にはもう手遅れと。。。まだ大坂の陣が始まっていない段階だから、これほど大胆なことも許されたのですかね。
次は【197】【200】車軸火鉢 伝加藤清正名古屋築城時使用車軸、尾張名所図会「加藤清正石引の図」 そして清正築城伝説が生まれる
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第2章 巨大城郭の時代 五 東海の要衝(本館7室2)
(二) 清正伝説
展示番号195,196
第2章 巨大城郭の時代 五 東海の要衝(本館7室2)
(二) 清正伝説
展示番号195,196