7/15~9/10開催の企画展「天下人の城」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について徹底リポート!

「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜

展示紹介

【33】清洲城下町遺跡出土品 信長が城下で造らせた画期的な武具?

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清洲城下町遺跡出土品(武具)愛知県埋蔵文化財調査センター蔵

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第2章 清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)
展示番号 33番
原さん
「清洲城下町遺跡」で出土した武具です。
おいでよ天下人の城展
遺跡名の「きよす」は「洲」なんですね。

原さん
今の清須市は須ですが、合併前の旧・清洲町の時は洲でした。どちらでもかまわないのですが、江戸時代以前は「清須」を使用する例が多いため、遺跡名は「清洲」であるが、本展では「清須」で統一します。

おいでよ天下人の城展
なんで江戸時代になって変わったんでしょうね。
原さん
清洲という名称は雅名に近い物でしょう。
おいでよ天下人の城展
発掘品ですね。
原さん
この地域は、五条川の河川改修に伴う工事の際などに発掘調査も行われて、この近辺では珍しいくらいに武具・甲冑の種類が出土しています。信長の時代の物かどうかははっきりしないが、今回は、遺物の中から本小札、月形喉輪、鉄鏃、鉛弾など武具に限って展示をおこないました。
おいでよ天下人の城展
こうした長年の発掘調査の結果、五条川の河川の移動や、中心施設が信長時代には東岸、息子の信雄時代には西岸になったことなどが判明してきたのですね。

今回の出土品についての読売新聞「探訪 東海百城」より一部引用します。

 信長と言えば、「革命児」の印象が強い。古い時代を否定し、ゼロから作り出す創造力があるようにみえる。

 その一つが「城下町」だ。

 大名の城に付随して、商人や鍛冶などの職人たちが町をつくることは当たり前と考えがちだが、現在も多くの地域で残る城下町の形は信長が初めて築城した小牧山城(同県小牧市)から始まったとされている。最近、これをさらに遡る考古学上の発見があった。

 「信長が、武士と商工業を一体化しようとした第一歩ともいえる発掘成果」と、愛知県内各地で発掘調査に携わり、2010~11年、清須城の城下町跡(同県清須市)を調査した同県埋蔵文化財センターの鈴木正貴主任専門員(53)が話す。

 清須城は、信長が小牧山城を造るまで本拠地とした城で、鈴木さんが出土物や遺構を精査したところ、武家屋敷の一部を鍛冶職人たちの作業所として改修していたことが判明したのだ。

 信長は小牧山の麓の平原に、商人や鍛冶職人たちを決まった場所に集住させる城下町を計画的に造成していた。今回の発見は、小牧の前に清須城で城下町造りの「実験」をしていたことになる。

おいでよ天下人の城展
信長が城下町を「発見」したきっかけになった武具なのかもしれないんですね。

出土品の小札(こざね)について、応援団のぅにょんさんが解説イラストを描いてくれました。(詳細な説明はこちら

大鎧の小札(こざね)(ぅにょん絵)

次は【34】本地鳴海古城跡之図 桶狭間の原因となった鳴海城の裏切りへ。

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第2章 清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)
展示番号 33番

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