【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道
二・清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)展示番号 34番
第1章 天下布武への道
二・清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)展示番号 34番
桶狭間の戦いは、永禄三年(1560)五月十九日、清須城主の織田信長が攻めてきた駿府の大名・今川義元を田楽狭間(でんがくはざま、愛知県豊明市、名古屋市緑区説も)と戦い、敗死させた戦い。
桶狭間合戦の城や砦の1つにあたる鳴海(なるみ)城の絵図です。
おいでよ天下人の城展
奇襲攻撃が有名ですよね。
原さん
奇襲攻撃として取り沙汰されることが多いのは事実ですが、桶狭間合戦は、元々、「付城(つけじろ、支城)合戦」でした。
おいでよ天下人の城展
お城を巡る戦いだったんですか?
原さん
今川領と織田領の境に位置する鳴海城、大高城(いずれも名古屋市緑区)をどのように攻略するかという戦いが前提にあるのです。そのきっかけとなった鳴海城の図面です。鳴海城は戦い後にすぐ廃城となったので、当時の城のつくりがわかります。
おいでよ天下人の城展
鳴海城は現在の名鉄鳴海駅の近くですね。古戦場とは思えない、ふつうの住宅街が広がっています。
原さん
一連の合戦は、織田家につかえていた鳴海城主の山口教継(やまぐちのりつぐ)、九郎二郎親子が、今川方に味方したことからはじまります。山口父子は後に今川義元により殺害されてしまい、合戦の際の城主は義元の重臣の岡部元信でした。
おいでよ天下人の城展
だから、義元が討ち取られたあとも、敵中にもかかわらず開城せずにしばらく籠城を続けたのですね。
原さん
一説には義元の首を受け取るまでは抵抗を続けたとも言われていますが、最終的には命は取られず駿河方面に落ち延びていきました。この鳴海城の開城が信長にとっては大きな意味を持ち、今川と織田の国境が大きく三河寄りに動きます。
おいでよ天下人の城展
織田信秀の死後、鳴海城の山口氏のように織田家内が分裂していくことについては 【26】斎藤道三書状でも紹介されていましたね。
岡部元信 今川家家臣、後、武田家家臣。今川義元の遠江・三河攻略に貢献した武将の1人。義元の命で鳴海城主となり桶狭間の戦いでは鳴海城を拠点として参戦。
義元が討ち取られた後も抗戦するが、一説には義元の首と引き替えに城を開城したと伝わる。
義元の死後は今川氏真に仕えたが、武田信玄の駿河侵攻により氏真が駿府を追われると降伏して武田家に仕えた。
天正2年(1574)に高天神城の城将に任命されたが、天正8年(1580年)第二次高天神城の戦いで討ち死にした。同族のもの(一説には兄の子)が大名(岸和田藩5万3千石)になる。
義元が討ち取られた後も抗戦するが、一説には義元の首と引き替えに城を開城したと伝わる。
義元の死後は今川氏真に仕えたが、武田信玄の駿河侵攻により氏真が駿府を追われると降伏して武田家に仕えた。
天正2年(1574)に高天神城の城将に任命されたが、天正8年(1580年)第二次高天神城の戦いで討ち死にした。同族のもの(一説には兄の子)が大名(岸和田藩5万3千石)になる。
次は【35】織田信長書状一霊軒・花井右衛門尉兵衛宛 マジで桶狭間まで5年前!信長と義元の前哨戦へ。
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第1章 天下布武への道
二・清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)展示番号 34番
第1章 天下布武への道
二・清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)展示番号 34番