満済准后(まんさいじゅうごう)日記写
第1章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第一室東側)
展示番号 4番
醍醐寺の三宝院の住侍(住職)であった満済准后(まんさいじゅごう、1378―1435)の日記で、蓬左文庫が持っている写しです。
この日記の永享5年(1433年)の記述には、『駿河守護であった今河民部大輔(今川範忠=のりただ、1408―61?)が国元に帰っている際、使者を出したところ尾張那古野で使者が範忠に追いついた』との内容があり、那古野について今河下野という人物の所領と記されています。
今川下野守(しもつけのかみ)が誰であったかは検証の余地がありますが、永享5年(1433年)の段階で那古野城の場所に今川氏がいたことがうかがえます。
そこに館や城があったのかどうかについて記載はありませんが、所領であると言うことは何らかの館があったと推測されます。
江戸時代の記録によると那古野城の築城は大永年間(1521年~1527年)とされますが、その前身となる館が1430年頃にはあった可能性が判明した貴重な史料です。
のちに、信長が清須城へ移る前に本拠とした那古野城のルーツに関する資料です。
醍醐寺とは、平安時代にできた、京都市伏見区にある真言宗醍醐派の総本山です。笠取山という山全体がひとつの大きなお寺で、◯◯院、△△院となかにある中規模のお寺の連合体のようになっています。そのなかのひとつが三宝院で、非常に格の高い子寺です。
「准后(じゅごう、じゅんごう)」というのは、天皇や上皇の次に偉いのが太皇太后・皇太后・皇后の三后です。その次に偉いということで用意されたのが「准后」です。とにかくめちゃめちゃ偉い人ということになります。「后」という字があるので、女性と思うかもしれませんが男性です。
室町時代のダースベイダー?くじ引きで将軍を決めた黒幕
満済准后は、公家出身の僧侶です。
足利義満の養子(猶子)として醍醐寺に入ったスーパーエリート。1395年(応永2)というから、わずか18歳で、醍醐寺73代座主(ざす)=一番偉い僧侶、1409年には、真言宗で最も格の高い東寺(とうじ)の125代長者=一番偉い中の一番偉い僧侶となりました。
4代将軍の足利義持(よしもち)が亡くなったときに、かの有名なくじ引きによって、天台座主であった義満の息子の義円(ぎえん)を将軍義教として誕生させました。
このくじ引きは、もちろんこの満済さんが仕組んだ「運任せではない」くじでありました。
こうして、幕府に影響力をもったために「黒衣の宰相」ともよばれました。
4代将軍足利義持といえば、【2】足利義持袖判御教書がありましたね。見ていなければもう一度見てみませんか。
次は【5】実隆公記写 那古野今川氏の没落と勢力を伸ばした水野氏や織田氏
第1章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第一室東側)
展示番号 4番