7/15~9/10開催の企画展「天下人の城」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について徹底リポート!

「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜

展示紹介

【4】満済准后日記写 今川氏が名古屋にいたことがわかる最古の記録

更新日:

満済准后(まんさいじゅうごう)日記写

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道  1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第一室東側)
展示番号 4番

醍醐寺の三宝院の住侍(住職)であった満済准后(まんさいじゅごう、1378―1435)の日記で、蓬左文庫が持っている写しです。

原さん
那古野城(なごや、現在の名古屋城)にいた今川氏「那古野今川氏」についての最古の記録です。
おいでよ天下人の城展
今川といえば静岡(駿府)のイメージですけど、名古屋にいたんですか?
原さん
はい、この那古野の今川氏がのちに桶狭間の戦いにも関係するので覚えておいてください。

この日記の永享5年(1433年)の記述には、『駿河守護であった今河民部大輔(今川範忠=のりただ、1408―61?)が国元に帰っている際、使者を出したところ尾張那古野で使者が範忠に追いついた』との内容があり、那古野について今河下野という人物の所領と記されています。

今川下野守(しもつけのかみ)が誰であったかは検証の余地がありますが、永享5年(1433年)の段階で那古野城の場所に今川氏がいたことがうかがえます。

そこに館や城があったのかどうかについて記載はありませんが、所領であると言うことは何らかの館があったと推測されます。
江戸時代の記録によると那古野城の築城は大永年間(1521年~1527年)とされますが、その前身となる館が1430年頃にはあった可能性が判明した貴重な史料です。
のちに、信長が清須城へ移る前に本拠とした那古野城のルーツに関する資料です。

おいでよ天下人の城展
那古野城のルーツということは?
原さん
地味な内容ですが、すなわち名古屋城のルーツということです!

醍醐寺とは、平安時代にできた、京都市伏見区にある真言宗醍醐派の総本山です。笠取山という山全体がひとつの大きなお寺で、◯◯院、△△院となかにある中規模のお寺の連合体のようになっています。そのなかのひとつが三宝院で、非常に格の高い子寺です。

「准后(じゅごう、じゅんごう)」というのは、天皇や上皇の次に偉いのが太皇太后・皇太后・皇后の三后です。その次に偉いということで用意されたのが「准后」です。とにかくめちゃめちゃ偉い人ということになります。「后」という字があるので、女性と思うかもしれませんが男性です。

室町時代のダースベイダー?くじ引きで将軍を決めた黒幕

満済准后は、公家出身の僧侶です。
足利義満の養子(猶子)として醍醐寺に入ったスーパーエリート。1395年(応永2)というから、わずか18歳で、醍醐寺73代座主(ざす)=一番偉い僧侶、1409年には、真言宗で最も格の高い東寺(とうじ)の125代長者=一番偉い中の一番偉い僧侶となりました。
4代将軍の足利義持(よしもち)が亡くなったときに、かの有名なくじ引きによって、天台座主であった義満の息子の義円(ぎえん)を将軍義教として誕生させました。
このくじ引きは、もちろんこの満済さんが仕組んだ「運任せではない」くじでありました。
こうして、幕府に影響力をもったために「黒衣の宰相」ともよばれました。

4代将軍足利義持といえば、【2】足利義持袖判御教書がありましたね。見ていなければもう一度見てみませんか。

次は【5】実隆公記写 那古野今川氏の没落と勢力を伸ばした水野氏や織田氏

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道  1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第一室東側)
展示番号 4番

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