豊臣秀吉書状 羽柴左衛門大夫(福島正則)宛 慶長三年八月廿八日 大阪城天守閣蔵 後期(8/16~)
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第2章 巨大城郭の時代
四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(二)大坂城
展示番号108番
第2章 巨大城郭の時代
四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(二)大坂城
展示番号108番
原さん
秀吉最晩年に開始された大坂城の拡張普請の際の記録です。
おいでよ天下人の城展
慶長三年(1598)って、秀吉が亡くなる年じゃないですか!まだ、まさか大坂城をもっと広げようというのですか?
原さん
ははは
おいでよ天下人の城展
あれ、宛先がひらがなですね。えーと、「はしはさへもん太夫」?誰でしょう?
原さん
羽柴左衛門大夫、つまり福島正則(1561?1624)のことです。
おいでよ天下人の城展
大物じゃないですか!
原さん
福島正則は、大坂城普請に3300人も動員していました。それに対する給与として、秀吉が米446石余・大豆約50石分、30日分を支給するという内容です。
おいでよ天下人の城展
ふーん、晩年の秀吉はだいぶおかしくなったと言われているけど、子飼いの武士には優しかったのかな。あれ、この書状の日付、8月28日……
慶長3年8月18日 秀吉、伏見城で死去(享年62歳)
おいでよ天下人の城展
あれ!死んだ10日あとじゃないですか?どういうこと?
原さん
この書状が出された十日前に秀吉は伏見城で没していますが、書状には秀吉の朱印が捺してあります。書状を受け取った側は、秀吉が生きており工事の命令を出していると思うでしょう。
おいでよ天下人の城展
どういうことですか?
原さん
以上のことから、秀吉の死が秘匿されていたことが読み取れます。
おいでよ天下人の城展
自由に死ぬこともできなかったのですね。。。天下人も大変です。
大坂城は三の丸造営をもって、この書状の翌年の慶長四年(1599)に完成している。
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第2章 巨大城郭の時代
四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(二)大坂城
展示番号108番
第2章 巨大城郭の時代
四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(二)大坂城
展示番号108番