7/15~9/10開催の企画展「天下人の城」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について徹底リポート!

「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜

展示紹介

【19】今川義元感状 御宿藤七郎宛 家康誘拐犯を倒した表彰状

更新日:

今川義元感謝状(写)御宿藤七郎(綱清)宛 徳川美術館蔵

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道  勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第一室東側)
展示番号 19番

今川義元による感状(武将が戦功のあった者に対して与える賞状)です。
この書状は今川家の家臣・御宿藤七郎(みしゅくとうひちろう)の一番槍の功績を讃えた内容です。
この感状からわかることは、今川家の三河侵攻に関わる記録です。

天文15年(1546年)に吉田城(愛知県豊橋市)を攻略した今川義元は、翌年には岡崎城主・松平広忠(家康の父)を配下に置き、三河侵攻を進めます。

これに先立ち、織田信秀(信長の父)の圧迫に耐えきれなくなってきた松平広忠は義元に援軍を求め、その見返りとして嫡男・竹千代(後の徳川家康)を今川家へ人質に出す約束を交わします。

しかし、駿府へ送られる道中で広忠の後妻の父(広忠の義父、家康の義祖父)にあたる田原城主・戸田康光が竹千代を奪い、織田に売ったとされています。

©富永商太

原さん
それに激怒した義元が同年8月に田原城を攻撃、9月5日には落城させて田原戸田氏を滅ぼします。 この感状はその田原城攻めにおいて陥落当日、城の舟蔵口というところで一番槍の功績を挙げた御宿藤七郎の功績を讃えたものなのです。

竹千代誘拐事件ですが、本当に戸田家によるものだったのか?という疑問が浮上しています。その新説は「【21】雛人形」で紹介します。

次は【20】今川義元感状写 御宿藤七郎宛 進撃の義元!

 

ハンコをありがたがるのは日本人だけ?

おいでよ天下人の城展
ところで感状は、今の表彰状のように大きくて立派なものだったんですか?
原さん
いえ。実は当時の感状は割に小さいもので、はがきを少し大きくしたような大きさのものだったんです。 実際に見たら「小さいな」と感じると思いますよ。
おいでよ天下人の城展
当時の感状はあくまで当座の証明書なので立派である必要はなかったのですね。
原さん
しかし、時代を経るごとにサイズが大きくなり、秀吉の頃にはかなり巨大になり、権威を表すものとなっていくんですよ。

書状の形式に関しても、のちの信長や秀吉は旧来の価値観をガラリと変えます。
当初は本文は右筆が書いていても、最後の署名だけは本人の直筆と花押(サイン)を据えることが一般的でした。
しかし、信長は花押ではなくおなじみの「天下布武」の判に、秀吉にいたっては、直筆も省略して、判だけで「天下人の書状である」と権威づけしたのです。

原さん
この行為から「高貴な人間なので、直筆で書く必要もなく判子だけも十分に価値がある」という意味合いが感じられますよね。
おいでよ天下人の城展
作業の手間もハンコのほうが楽です。単に秀吉がサインをめんどくさがって、楽したかっただけではないんですね。
原さん
判子の権威がきかっけで、直筆(サイン)よりも判子の方が意味を持つようになったのは、日本の判子文化の始まりと言えるかもしれないですよ。あくまで個人の意見ですが、ヨーロッパではサインで済むところを、日本では判子を押すほうが主流ですよね。場合によっては直筆よりも、大量生産の判子のほうが重要視されることすらあるのですから。

おいでよ天下人の城展
シヤチハタは名古屋の会社ですね。名古屋生まれの秀吉以来の伝統でしょうか?

原さん
さすがに、判子文化が途切れなく、秀吉の時代から現在に至っているかというと。。。

戦国大名のハンコ事情

おいでよ天下人の城展
印章を使い始めたのは、信長かな?やっぱり革命児だからですよね。
にのさん
ちょっとまったぁ!印章が花押に変わるものとしてもっとも早いものは、室町時代になったばかりの暦応3年(1340)11月7日の久我前右大臣(こがさきのうだいじん)の御教書の袖(右側の空白部)に捺された「宇宙」墨印だよ。
おいでよ天下人の城展
あっ、勉強家のにのさん。「宇宙」とはおしゃれな。【2】足利義持判物も御教書でしたね。袖判とはなんでしょう?

文書の右端の余白すなわち袖にある花押のことであり、奥上・奥下・日下判に対応する。自筆ならぬ右筆書き文書の内容を自筆文書と変わらぬものと認定する意志を宛先へ具体的に表示するために袖に自筆を染めてする花押のこと。袖判下文・袖判下知状・袖判奉書・袖判御教書・袖判庁宣などがある。大臣・将軍など社会的に地位の高い人、また生活圏内の責任的地位にある人も袖判をした。袖判には次の両面の目的がある。一は発進者の責任表示、二は発給文書受理者への権威の間接的あるいは無言の示達である。袖判は奥上・奥下・日下判よりも尊大な署判の書式であったのはこの謂である。荘園の本所・領家より下司へ発給する領家下文などの領家袖判に上記の両方の意味がある。袖判文書の初見は寛治三年(一〇八九)九月二十二日大宰府庁下文案である。(国史大辞典より引用)

おいでよ天下人の城展
うーん、右下か。左下に捺す天下人の印とは場所も、意味もちょっと異なるのかな?
にのさん
名前の下に花押の代わりに捺すことは、戦国時代から織豊時代を経て多くなり、江戸時代になると一般的になったんだよ。特に戦国時代の北条・今川・武田・上杉などによって発給された印判状は花押と同じような意味であると、判子の地位を確立したものとして注目されているんだよ。

おいでよ天下人の城展
信長でなく、北条、今川、武田、上杉。。。東日本の大名が多いんですね。

にのさん
印判状の最古の使用例は長亨元年(1487)義元のお父さんの今川氏親の黒印状とされているんだ。

おいでよ天下人の城展
結構古くからあるんでうね。ほかの大名はどんな印だったのですか?
にのさん
北条氏の「禄寿応穏」の印字のある「虎」の印が有名だよ。北条氏は氏直に至る四代にわたって、この印を使用していくんだね。武田氏は丸竜の印。上杉氏は、印文、「地(地蔵)帝(帝釈 妙(妙見)」の獅子の印、仏神名号朱印、印文「勝軍地蔵・摩利支天・飯縄明神」などがよく知られているよ。特に関東の三傑としての武田・北条・上杉が、竜・虎に獅子と印章の上にまでも互に負けず劣らずの勢いを示しているのは面白いね。
おいでよ天下人の城展
織田信長は有名な「天下布武」の印ですよね。
にのさん
天下布武の印は小判形・馬蹄形・双竜円の三種あって、小判形がもっとも早く、馬蹄形、双竜円がそれに次ぐけど、双竜円がもっとも重く用いられ、他の二つが朱黒印両方あるのに、双竜円は朱印だけなんだ。

おいでよ天下人の城展
へぇ、印もデザインで使い分けていたんですね。

にのさん
豊臣秀吉は印文不明の朱円印、徳川家康は「福徳」の朱印を初めに、坪形の印や「忠怒」の印、「源家康」など数種の印を用いているね。御朱印地とか御黒印地という地名があるけど、これは印章を捺した朱印状や黒印状をもって与えられた土地のことをいうんだよ。

次は【20】今川義元感状写 御宿藤七郎宛 進撃の義元!

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道  勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第一室東側)
展示番号 19番

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