このコーナーはいよいよ、我らが「尾張・名古屋は城で持つ」でおなじみの名古屋城です。
名古屋城ができる経緯や背景、そしてどのように使われていたのかについて、様々な視点から紹介していきます。名古屋市民でもきっと知らない逸話があるはず!
【163】徳川義直画像模本 前期(8/15まで)【164】平岩親吉画像模本 後期(8/16から)(いずれも模本)
第2章 巨大城郭の時代 五 東海の要衝(本館7室2)
(一) 名古屋築城
展示番号163・164
尾張徳川家初代義直の肖像画ですが、これも徳川美術館の学芸員であり日本画家だった桜井清香さんが、昭和12年(1937)に模写した作です。
名古屋市中区の清浄寺所蔵の原本は空襲で焼失してしまったため、唯一の義直の画像であり、資料的価値の極めて高いものとなっています。
徳川御三家筆頭である尾張藩祖の徳川義直(幼名:五郎太)は、関ケ原の戦いがおこった慶長5年(1600年)、徳川家康の九男として生まれます。
慶長8年、わずか4歳だった五郎太は甲斐25万石を拝領し甲府藩主となります。
義直が初の城主となった甲府城は、【158】甲府城図(「極秘諸国城図」十八)4歳の徳川義直が初めて城主になった時の甲府城でも紹介されています。
甲府城主とはなったものの、まだ4歳。
幼い五郎太は家康や生母お亀の方とともに駿府に住み続け、五郎太の御付家老・守役となった平岩親吉が甲府城に在城し、甲斐統治を担うことになります。
元服後の慶長12年嗣子がいなかった兄、松平忠吉が死去したことにともない、兄の領地を引き継ぐことになり、尾張国清州へ加増転封となりました。
しかしやはりまだ年若いということもあり、この時も犬山城主となった平岩親吉らの家老らが代わりに政務をとりおこないます。
清洲から名古屋城に移り、1612年に完成する名古屋城に義直が実際に入城するのは家康の死後の元和2年(1616年)となりました。
義直は尾張藩政の確立に努めるとともに、家康の学問好みを受け継ぎ、多くの歴史・軍学・神道などの著作のほか、書画の優品を遺しています。
ちなみに、幼名の「五郎太」は城の石垣を築く際、巨大な石と石との間に「くさび」として入れる五郎太石よりとった名で、徳川家のくさびとなるようにと願いを込めた家康自らが名付けています。
この名前は将軍家の竹千代のように、尾張家代々の嫡男の幼名となります。
幼い義直をサポートし、名古屋城築城のリーダーだった平岩親吉
徳川十六神将の一人でもあった義直の御付家老平岩親は、家康の駿府人質時代からの盟友であり、家康からの信頼が非常に厚い家臣です。
例えば、嫡男・信康が元服すると傅役に任じたり、嗣子のいなかった親吉に八男、松平仙千代(義直の同母兄1600年に早世)を養嗣子として与たりするなど、義直など自分のの子供を何人も託していることからも親吉に対し家康は絶大な信頼を寄せていたことがうかがえます。
名古屋城築城前、最初に入った清州は五条川が通り交通の便はよかったものの水害に弱かった為、熱田台地に城下町ごと移転させることとなります。当初、移転には反対の立場でしたが、名古屋城築城の最高権力者として大名たちを統括することになります。
親吉の性格は傲慢であったという記録が残っていて、前清州藩主・松平忠吉の家臣団をそのまま引き継いでいますが、忠吉の附家老であった犬山城主・小笠原吉次をはじめ軋轢の生じた旧家臣団の粛清をおこない、平岩一党体制を作り上げたとのこと。
最終的に平岩親吉は犬山城主として12万3000石を領しますが、新築した名古屋城では二之丸に居住し、その地でなくなります。家康から養子をもらいますが早死してしまったりなど、子が無かったため親吉の死後は平岩家は断絶となってしまいます。
次は【165】徳川秀忠尾張領知状 徳川義直宛 尾張藩260年の歴史が保証された重要な1通
第2章 巨大城郭の時代 五 東海の要衝(本館7室2)
(一) 名古屋築城
展示番号163・164