7/15~9/10開催の企画展「天下人の城」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について徹底リポート!

「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜

展示紹介

【21】雛人形 人質となった幼い家康が遊んだ人形と衝撃の「誘拐冤罪説」

更新日:

雛人形(二対の内)個人蔵 8/13まで期間限定

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道  勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第一室東側)
展示番号 21番
原さん
正確にいうと紙びなですね。熱田の加藤家に代々伝わる品で、松平竹千代(徳川家康)が尾張国での人質生活を送った際にこの紙雛で遊んだと伝えられている珍しいものです。
おいでよ天下人の城展
ふーん。紙のひななんて、珍しくもなんとも、、、って、えーーーっ?!家康が遊んだひな???
原さん
竹千代の世話をした熱田の東加藤家の娘・与女(よめ)が西加藤家に嫁ぐ際に持参したとされています。
おいでよ天下人の城展
19番の展示品にもありましたが、竹千代が織田家の人質になったのは、織田信秀(信長の父)の三河侵攻に圧迫された家康の父・松平広忠が、今川義元の後援を得るために竹千代を駿府に送る途中、広忠の後妻の父である田原城主・戸田康光の裏切りで織田方へ売られたということでしたよね。
原さん
これに対して中京大教授の村岡幹生さんは、田原城は渥美半島の付け根にあり、今川領の遠江(静岡県)に隣接し、今川を裏切る行為は非常にリスクが高いと疑問を投げかけました。実際、田原城の戸田氏は今川氏に滅ぼされている。
おいでよ天下人の城展
それほど危険なことする理由がないですね、普通考えれば。
原さん
村岡教授の発見した新資料では、広忠は織田信秀に降参しており、降参の証として嫡男・竹千代を自ら率先して信秀の差し出したとの記録があったのです。
おいでよ天下人の城展
えっ?!では、継母の父によって売られたとのではなく、実の父親に「売られていた」と。。。汗
原さん

江戸時代になると「神君神話」として、神君である家康に都合の悪い歴史は書き換えられる風潮があり「父が織田家に敗北して、降伏の儀式として息子を差し出した」という話はあまり良い話ではないので、嫁の父の裏切りということにしたのではないかと推測されます。

 

おいでよ天下人の城展
あわわ。大変な歴史のパンドラの箱が近年、開かれていたんですね。
原さん
この説にはまだ検証の余地があります。新しい説を含めて展開する今回の展覧会なので、通説と比較し、みなさんも想像して楽しんでほしいです。

参考として、「冤罪だった?幼い家康の身代金誘拐に新説」(読売新聞「探訪 東海百城」)から一部引用します。

 今川氏に従っていたはずの戸田氏が身代金目的で誘拐するなど、不可思議な点が多い。田原城のある東三河は織田氏の尾張ではなく、今川領の遠江(静岡県)に隣接している。実際、田原城の戸田氏は今川氏の怒りを買い、滅ぼされたとされている。なぜ、それほど危険なことを金のためにしたというのか。

この疑問を解消する新説を村岡幹生・中京大教授(日本中世史)が2015年、論文で発表した。

村岡説は、信秀は1547年、岡崎城を攻め落とし、降伏した広忠が、人質として家康を織田氏へ差し出したというもの。誘拐自体がなかったことになる。

村岡さんが解読し直した史料に次のような記載があった。

「岡崎(広忠)は弾正忠へ降参し、命からがらの様子」「弾正忠は三河を平定し、翌日、京都に上った」

当時、北陸にいた尾張出身の法華宗の高僧日覚にっかくが、尾張や京都からもたらされた情報を書き留めていたもので、「弾正忠」は信長ではなく信秀、時期は47年であると読み解いた。

この頃の三河は、西からは信秀が、東からは今川氏が勢力を広げようとする「草刈り場」となっていた。信秀は西三河の安城城(愛知県安城市)を押さえ、さらに岡崎城を狙っていた。

村岡さんは、この年に信秀が三河攻略の大規模な侵攻作戦を行い、広忠が降伏したとみる。那古野城(名古屋市)の城主で前年に元服したばかりの信長が同じ年に吉良氏配下の大浜(同県碧南市)に初陣に出ているが、この作戦の一環だったことになる。

降伏した父が家康を人質として織田氏へ差し出したとすれば、戸田氏も誘拐犯ではなく、信秀の作戦に呼応して蜂起し、今川氏による岡崎城救援を阻止したものの、今度は信秀の救援が間に合わずに滅ぼされたということになる。「戸田氏の誘拐はぬれぎぬ」と村岡さんは主張する。

次は【22】金三蓋傘形指物 松平VS織田の旗指し物

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道  勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第一室東側)
展示番号 21番

織田家の資金番?信長を支えた実力者、熱田の西加藤家とは

加藤延隆(かとうのぶたか)

熱田加藤家、分家の西加藤家の初代、父は景繁、兄は本家を継いだ加藤(図書助)順盛である。
天文8年(1539)3月20日、織田信秀より田畑を安堵され、商売の特権を認められているのが見られる。(西加藤家文書)
その後天文21年(1552)2月21日、信長の奉公人からも日々野修理・彦左衛門が加藤氏の悲観で有る事を認めれている。(西加藤家文書)
熱田の商人であるが、国人(武士)としてかなりの力を持っていた事がうかがわれる、同12月20日、信長より徳政・国役免除を許された。
さらに永禄6年(1563)11月には領地安堵のほか 様々な特権を保証されている。(西加藤家文書)
元亀2年(1571)7月4日没 室(妻)は前田利家の姉、あるいは姪というがいずれもしても年代にずれを感じる、誤りの可能性が高そうだ。
大変な連歌好きで駿河旅行を延期してまで、里村紹巴を熱田に招いたという。

加藤景隆(かとうかげたか)

熱田の西加藤家の祖・延隆の長男。
天文21年(1552)父とともに信長より徳政・国役等を免除されている。
弘治4年(1558)1月27日 商売のことや田畑・屋敷などを信長より安堵されている。(西加藤家文書)

この頃は信長・信勝兄弟対立の中で東加藤家は信勝の、西加藤家は信長の保護を受けていたように思われる。
永禄6年(1563)11月 父延隆(全朔)ともに領地安堵され様々な特権を保証された。
元亀(1571)8月4日以前には同族新右衛門の闕所を任された様子である。(西加藤家文書)
天正4年(1578)12月13日 長男景延と連盟で信忠より徳政・国役免除など、様々な特権を安堵されている。(西加藤家文書)
竜珠寺の搭基陰刻によれば、天正7年10月3日没したとある。

面白い判物が残されている。
天文22年(1553)10月2日 信長の弟、織田達成(信勝)は、本家の加藤順盛に商売上の諸権益ならびに財産を保証する判物を出してる事から(愛知県史資料編10)、信勝も熱田支配をしていただろうか。
熱田の領主権利を弟信勝に譲ったのか?兄弟仲はこの頃はまだ円満だったのか?
色々と想像を掻き立てる判物ではあるが、真偽のほどはいかに?

西加藤家は織田家からとても厚隅されていた事は現在残る加藤家文書がから読み解く事が出来る。
現在、数年前までは大きな塀で囲ってあった熱田のお屋敷はすっかり様変わりし、駐車場に姿を変えて現在は説明看板と碑があるのみである

にのさん
であるぞ、エヘン

次は【22】金三蓋傘形指物 松平VS織田の旗指し物

-展示紹介

Copyright© 「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜 , 2017 AllRights Reserved.