【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
展示番号 18番
第1章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
展示番号 18番
この書状は【17】斎藤利政(道三)書状 安心軒・瓦礫軒宛に連動しています。
これは【17】斎藤利政(道三)書状 安心軒・瓦礫軒宛書状の2日後、水野十郎佐衛門信近に送った書状で、こちらも加納口の合戦について具体的に書いてあります。
この書状を送った長井秀元というのは斎藤道三の家臣ではないかと推測されます。
原さん
内容としては2.5万~2.6万の兵を率いていていた織田軍だが、最終的には6~7人で逃げていったというようなことが書いてあります。しかもこの時逃げていった織田軍は、木曽川で2000~3000人溺れて死んだほどの完全な敗戦だったという内容です。
その上「尾張の中にはもうまともな武士は一人もいなくなった」ほど、叩きのめしたというようなことが書いてあるのです。しかし、2.5万~2.6万の大軍を織田が率いることができたかは疑問が残るなど、かなり誇張した内容である可能性が高いです。
おいでよ天下人の城展
話が大きすぎて逆に怪しまれないか気になりますが。
原さん
つまりこの書状で言いたいことは、「今が織田を打ちのめすチャンスなので私達と同盟を結びましょう」ということなんです。しかし残念ながら水野家は松平との同盟を解消し、水野家は織田家に味方するようになっていました。信秀のほうが一枚上手だったんですね。
しかし画策したことがすべて実行されるわけではなく、立ち消えした計画はいくつもあるんですよ。当時は、お互い水面下でのすざましい外交戦展開していたことを垣間見ることができる史料です。
しかし画策したことがすべて実行されるわけではなく、立ち消えした計画はいくつもあるんですよ。当時は、お互い水面下でのすざましい外交戦展開していたことを垣間見ることができる史料です。
おいでよ天下人の城展
戦国時代に生きると人間不信になりそうですね・・・。
次は【19】今川義元感状 御宿藤七郎宛 家康誘拐犯を倒した表彰状に続く。
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
展示番号 18番
第1章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
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