長久手合戦図屏風 徳川美術館蔵 後期(8/16以降)のみ
第2章 巨大城郭の時代 四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(二)大坂城
展示番号100
この合戦図は、天正12年(1584年)4月9日の長久手(愛知県長久手市)で行われた徳川勢と森・池田勢の合戦を描いたものです。
画面中央上部には、山陰から現れた家康の金扇の馬標、左寄りの場所では鉄砲で眉間を射抜かれる森長可、下部には討ち取られる池田恒興、元助父子の姿が見られます。
この合戦は井伊直政が武田家の旧軍を付属され、具足を赤色に統一した赤備えとしての初陣。
森長可を討ち取るなどの武功を挙げます。その奮闘の様子が、中央の山上と下部の組討ちをする姿の2ヶ所に描かれています。
ところで、小牧・長久手の戦い自体は3月から11月までの8ヶ月にも及んでいるのに、なぜこの合戦だけがクローズアップされているのでしょうか?
よく言われるのは、「小牧・長久手の戦いは家康と秀吉の戦いである」ということですが、家康はあくまで信雄の味方として戦っているので、正しくは「織田信雄VS秀吉の戦い」です。
当時の感覚では主君と家臣が戦うのはあってはならないこと。
秀吉は主君を相手に戦うという前代未聞の戦いを行ったことになります。
戦いに発展した理由は、清須会議で信長の直系の孫・三法師(織田秀信)が家督継承者となりましたが、実質は信長の二男・信雄が家督継承者のようになっていたからでした。
その裏付けとして、清須会議後の清須城は織田信雄が改修し、そこから織田木瓜(もっこう)の金箔瓦が出土しています。
この金箔瓦を使えるのは、織田政権では一門衆で嫡男、家督継承者のみとされていました。
信雄が改修した清洲城からこれが出てくるというのは、事実上の家督継承者であったことを意味します。
映画やドラマの影響で無能な殿というイメージがありますが、そうでもなかったわけですね。
信雄が無能というわけではなく、秀吉の政治力が勝ったということではないでしょうか。
信雄が実は優秀であったということは、読売新聞で連載中の「探訪 東海百城」の信長の次男1~6シリーズを読むとわかります。
政治力に優れた秀吉との立場が逆転し、それにガマンならない信雄との戦闘が開始となります。
徳川の完敗であっても「引き分け」だと証明したい
小牧・長久手の戦いの勝敗は「引き分け」だと言われていますよね。
「第1次天下分け目の戦い」と称する人もいますが実際そうだと思います。 呼応した全国の大名がどちらに味方するか、悩ましかった時期でした。
まず伊勢方面で信雄が挙兵し、やがて尾張、犬山、小牧まで広がります。
最終的には織田信雄が秀吉に屈服して、和睦となるのですがこれは「引き分け」なのでしょうか?
実際には、完全に信雄・家康連合軍の完敗です。
この戦い後、信雄は伊勢取り上げられ、尾張一国のみとなっています。
そして家康は上洛し秀吉に頭下げますし、次男の結城秀康を人質に出している。
人質を出すというのは、当時では敗者の儀式で織田が完敗した証拠とも言えるでしょう。
なのに引き分けだと思われているのか。
この合戦図が言いたいことは、「長久手の戦いにおいては徳川が秀吉軍に圧勝している。徳川は一方的に負けたわけではない」ということ。
池田恒興、森長可といった武将を討ち取り、しかも井伊直政が侍大将としての初陣でもある長久手の合戦。
2箇所も彼の部隊の活躍が描かれています。
あの合戦に参加したことが、徳川の配下の武将として誉れであるということを表現しているのでしょう。
長久手合戦は天下人の秀吉に土をつけた戦いであり、天下人と同等で配下になったわけではないということをいいたいのかもしれません。
しかし、ここで織田家は完全に秀吉に破れ、秀吉天下の物語が始まっていきます。
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信長の次男・信雄(のぶかつ)はバカ息子だったのか?
「信雄って誰だっけ?」という人も多いのではないかと思います。
信雄と書いて「のぶかつ」と読みます。信長の2男です。(音だけ聞いていると信長の弟の信勝と紛らわしいのでお気をつけて)
従来像を一言でいうと「信長のダメ息子・織田信雄」なのですが、今回の解説の中には、そのイメージをひっくり返すものもあります。
読売新聞の「探訪 東海百城」の信長の次男シリーズは6回にわたり、信雄が愚将ではなかったことを紹介しています。
秀吉対徳川家康・信雄連合が対決した小牧・長久手の戦いでは、信雄が戦いを始めたのに独断で和議してしまい、奮闘していた家康ははしごを外されてしまった。小田原攻めでは尾張の領有にこだわり秀吉の怒りを買って改易された――など、信雄には「愚将」の逸話がつきまとう。
三谷幸喜監督の映画「清須会議」では、柴田勝家が「信雄様は大うつけ。織田家の棟梁がつとまるわけがない」と言い放ち、秀吉も「あのバカでは無理です」とのセリフが続くように、これが信雄への一般的なイメージだろう。
だが、その実態はどうだったのだろうか。千田嘉博・奈良大学長(城郭考古学)と宮武正登・佐賀大教授(日本中世史、城郭史)が、信雄が築いた田丸城(三重県玉城町)を通じて人物鑑定した。
千田さんは「この城はすごい。とても大うつけが造れる城ではありません」と断言する。宮武さんも「中世の城から近世の城へ大きく転換する画期となる城。信雄は『できる人』だったと言えます」と賛同する。
信雄は、1575年に田丸城を大改修し、石垣と天守のある現在あるような城を築いたとされている。
「実は、これは大変なこと」と宮武さんが切り出す。日本史上初の天守(当時は天主)は、信長が76年に着工し79年に完成させた安土城(滋賀県)だ。「信長が安土の前に、信雄に『天守』の試作品を造らせていたのかもしれません」と続ける。
現在ある天守台は新しく積み直したものだが、千田さんは「きちんと発掘調査をすれば『日本最古の天守』が発見される可能性もあります」と期待する。
(信長の次男1より引用)
1582年6月2日の本能寺の変で織田信長と長男の信忠を失った織田家は、同月27日の清須城(愛知県清須市)での会議で次の家督を決める。決まったのは、次男の信雄のぶかつではなく、信忠の3歳の息子、三法師だった。信雄にとって「清須会議」は敗北だったのか。
「実は織田家の跡取りになりたいという最終目的で考えると、信雄にとって清須会議はむしろ成功だったとも言えるのです」と、播磨良紀中京大教授(織豊期研究)は意外な見方をする。信長の次男2より引用
天下人レースには勝てなかった織田信雄のぶかつ(1558~1630年)だが、1582年(天正10年)から9年間、尾張国(愛知県)を支配した際の治世者としてはどうだったのか。信雄研究の第一人者である加藤益幹ますみき・椙山すぎやま女学園大教授(織豊期研究)は「残っている書状が少なく、信雄の個性を判断するのは難しいのですが」と前置きした上で、「父の信長から優秀な部下をつけられており、『チームとしての信雄』は非常に優れていました。信雄本人も部下をきちんと把握し動かしていました」と評価する。(略)
千田嘉博・奈良大教授(城郭考古学)が1990年に発表した論文によると、信雄は尾張国を、徒歩で1日で歩けるくらいの範囲の12の区域に分けて、重臣たちに任せた。重臣たちはその地域の中心となる支城に、城下町と総構え(城下町全体を土塁などで囲う防御網)を整備。それぞれが地域経済の増強を図ったことで、尾張全体の経済や軍備は底上げされた。
「『チーム信雄』は、ほとんどの支城の領地経営に成功したようです。興味深いのは、独裁的なトップダウンだった父親と対照的に、信雄は部下に大幅な権限を委譲したことです。部下たちにとって信雄は非常に働きがいのあるリーダーだったことでしょう」と千田さん。信雄が尾張を支配したのは1582~90年。千田さんは「現代の3大都市圏につながる、約50万石の豊かな尾張国となるのは、信長や徳川家と同等以上に信雄の功績が大きかった」と強調する。(信長の次男3より引用)
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