徳川家康伏見城普請中法度 文禄三年二月五日 徳川美術館蔵
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第2章 巨大城郭の時代 四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(五)伏見城
展示番号138 番
第2章 巨大城郭の時代 四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(五)伏見城
展示番号138 番
伏見城の建設の記録が徳川美術館にもあります。
德川家康は当然、秀吉に従う一大名でありましたから、普請を手伝います。
その時に部下たちに守らせるルールが「普請の法度」です。
ある程度の規模の建設現場ですから、けっこうな数の喧嘩・口論が起こるわけです。
ここで面白いのは、秀吉と家康の上下関係が明確に出ているということです。
上方の武士、つまり豊臣家の家臣に徳川家の家臣が殺されても、その時は我慢せよと書いてあるんですね。
上の判断に任せよというものです。
豊臣方は別に無罪になるというわけではないですけれども、そこで歯向かってはいけないと言うのです。
その場で報復などに動くと、必ず豊臣(上方)の武士の方に判断が有利に働く可能性があるから、とにかくブチ切れるなと。
まずは我慢して、我々徳川家の上層部の判断をあおげという風に書いてあるのです。
天下人となった豊臣家と、一大名として家臣になってしまった徳川家の関係が見えてきます。
次は【139】近衛前久書状 文禄地震で大和郡山城の大手櫓が崩れ圧死した僧侶への見舞い
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第2章 巨大城郭の時代 四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(五)伏見城
展示番号138 番
第2章 巨大城郭の時代 四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(五)伏見城
展示番号138 番