織田信長朱印状 沢源三郎宛 個人蔵
第一章 天下布武への道 3 小牧山城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第二室)展示番号 67番
織田信長が「鷹匠」を厚遇していたという書状が見つかり、徳川美術館の天下人の城展で初公開されることになりました。発見のスクープが6月20日の読売新聞に掲載されました。(7月15日にはNHKでも報道されました)
徳川美術館 #天下人の城 読売新聞20日社会面に 「信長『鷹匠』厚遇の書状 」として、織田信長朱印状 沢源三郎(実仲)宛が載っています! 鷹狩りが好きな信長が家臣に取り立て、厚遇したらしい!18日のキックオフミーティングではなにも言ってなかったけど⁉ #織田信長 #鷹 pic.twitter.com/Rqlehb1ioL
— 伊勢國 藤麿呂 (@2213sanfuji) 2017年6月19日
上の記事から引用します。
戦国武将の織田信長(1534~82年)が、鷹狩りで使う鷹の調教や管理を担った「鷹匠(たかじょう)」に領地の所有を認めた書状が見つかった。和漢の文献などを所蔵する名古屋市蓬左(ほうさ)文庫が印などから確認した。同文庫は「鷹狩りの愛好家として知られる信長が、鷹匠を保護していたことがわかる貴重な史料」としている。
書状は縦29センチ、横45センチ。1574年(天正2年)11月24日付で、江戸時代に鷹匠だったことがわかっている近江国(滋賀県)の沢氏宛てに出していた。「沢与助如当知行宛行畢(沢与助当知行=とうちぎょうのごとく宛行=あておこない おわんぬ)」と記し、父・沢与助に代わって沢家当主となる沢源三郎に知行(領地)を保証する内容。
(略)
書状は今年4月、東京都内であったオークションで三重県内の男性が購入し、同文庫に調査を依頼していた。
こんなビッグニュース、6月18日のキックオフミーティングで出たかな?と思いましたが、よーく振り返ると、
と、原史彦さんがちゃんとおっしゃっていたものでした(^^ゞ
記事では、信長文書研究では日本一の研究者として知られている村井祐樹・東京大学史料編纂所准教授が
「沢氏は、信長以前に近江を支配した六角氏の時代には家臣としては見当たらない人物。鷹狩りの好きな信長が家臣に取り立て、厚遇したのではないか」
とコメントされています。
書状の内容ですが、沢さん一家は、現在の滋賀県東近江市の御園神田郷に所領を持っていたようです。
信長が近江に侵攻する以前には、この地域は大名六角氏の支配地なので、沢さんも六角氏に仕える武士だったようです。
しかし、村井先生が説明されているように、大名の直臣ではなく、下級武士だったとみられます。
永禄11年(1568年)に信長が上洛した際に、信長に従ったようで、武人というよりも、鷹の扱いのうまい人として、沢さん父(沢与助)が直臣になった模様です。
鷹狩りというのは、合戦において直接役立つ技術ではなく、武将たちにとっては日頃のエクササイズ。鷹匠は、その運動を補佐する役目です。
現代風に言えば、ライ◯ップのパーソナルトレーナーといったところでしょうか。
さて、きになる鷹匠への給金(所領)ですが、(ほかの資料から)
米方64石 小物なり12貫文
だそうです。
これはどれくらいの価値があるのでしょうか?
現在価値に換算するのは、とても難しいのですけど、応援団メンバーが色々な情報から産出した一つの計算式の案として
64石(1貫=2・5石)=25.6貫+12貫で、1貫=15万円で計算すると、年収564万円!となりました。
この額で、今回の書状にあるように9人の部下(鷹を世話をする人たちでしょう)を養ったわけですね。昔は、人件費は相当安かったのでしょうか。
ちなみに、「小物なり」とは米以外の税金の事で、例えば、山林、原野、河とか海から取れるもの。それを米などの現物ではなく現金で支払いになる、とのことです。
なお、沢氏はその後、徳川家康の鷹匠(鷹師)となり、江戸時代を通じて旗本として存続しました。ただ、鷹匠としては、生類憐れみの令のときにお役御免になって、近江から江戸へ移り住んだそうです。
次は【70】 織田信長朱印状 延友佐渡守宛 まさかの親族の裏切りに「是非もなし」と信長激怒
信長の技術者優遇
信長がいかに技術者を大切にしたかについては、城造りについてももちろん例外ではない。
今回の出展品ではないが、それを示唆する重要文化財の文書がある。
去年矢蔵申付候時、召仕候大工内、上手両人候つる、其者を早々可越置候
熊本藩の細川家に伝わる「織田信長黒印状」で、天正5年(1577)に、信長が細川藤孝に対して「去年、櫓普請の時に採用した大工のうちに、腕の立つ者が二人いた。早急に彼らをこちらによこすように。その他にも優れた大工を十人ほど至急調達して、派遣せよ」と命じたものだ。
(訳文は図録「細川コレクション 信長からの手紙」58ページより)
文書にある「去年」は天正4年の安土城築城のことと見られ、工事現場にも目を光らせて厳しく監視するとともに、優れた人材の目利きをしていたことをうかがわせる。
次は【70】 織田信長朱印状 延友佐渡守宛 まさかの親族の裏切りに「是非もなし」と信長激怒
第一章 天下布武への道 3 小牧山城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第二室)展示番号 67番
*この記事はほかの展示品解説とトーンがちがっていますが、新発見のニュースが報道された直後に書かれたためです。当時の雰囲気を伝えるためにほぼそのままでお届けします。
アイキャッチの画像はunsplash.comから