7/15~9/10開催の企画展「天下人の城」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について徹底リポート!

「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜

展示紹介

【14】三州宇利古城図 真田丸や江戸始図の兄弟「極秘諸国城図」の1枚に家康の祖父の戦陣が描かれた理由

更新日:

三州宇利古城図 (松江歴史館蔵) 8月14日~9/10までの展示

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
展示番号 14番
おいでよ天下人の城展
宇利(うり)城ですか。どんなお城でしょう。
原さん
三河国・遠江国の国境付近(愛知県新城市)に現存する山城です。
おいでよ天下人の城展
三州は三河という意味なんですね。
原さん

三河統一を進める松平清康(家康の祖父)は奥三河の菅沼氏・奥平氏を配下としました。しかし、宇利城の熊谷備中守は清康に従わなかったため、享禄3年(1530)秋に清康勢による城攻めが行われました。清康の叔父、松平右京亮が討ち死にするなど苦戦を強いられるものの攻略に成功し、豊川流域(東三河地域)を支配下においたのです。
おいでよ天下人の城展
その戦いの様子が描かれているのですね。

話題の松江歴史館蔵の「極秘諸国城図」の一枚

原さん
本図には清康による宇利城攻めの配置が記されています。清康は富賀寺に本陣をおいたとの伝承がありますが、本図ではそこではなく、城の南東丘陵を本陣としている。なぜ戦の配置が記されたかは定かではありません。
おいでよ天下人の城展
この絵は松江歴史館が持っているんですか。
原さん
三州宇利古城図は菅沼家伝来の1枚と、この図があります。この図は、松江歴史館所蔵の「極秘諸国城図」の中にあり、千田嘉博教授が調査した最古級の江戸城絵図「江戸始図(えどはじめず)」や「大坂真田丸」の絵図もこの中にあります。
おいでよ天下人の城展
あのニュースになった2枚の図と仲間なんですね。なぜ戦の配置が記されたのか、そこらへんにヒントがありそう。。。
千田先生
「極秘諸国城図」(74枚)は、出雲松江藩主だった松平家が城主の軍学勉強のために編纂を命じた城絵図集だったと、私は考えています。
おいでよ天下人の城展
あっ、発見者の千田先生!
千田先生
そこに松江城の絵図が含まれていなかったことから、これまで松江市では研究の対象とはされていませんでした。松江藩は自分の城は熟知していましたから、軍学勉強用の絵図集に松江城を入れなかったのは当然でした。
おいでよ天下人の城展
なるほど!だから、宇利城攻めの歴史を学ぶために本陣の場所も書いたのかもしれませんね。(ちなみに上記の千田先生の会話文は、先生の著書『江戸始図でわかった「江戸城」の真実』(宝島社新書)の18ページからの引用です)

次は【15】水野忠政画像 家康の祖父の織田と松平のバランス外交術(8月15日まで、前期のみ)

参考 ◇「なぜ徳川美術館で家康時代の江戸城を描いた「江戸始図」が展示されるのか?千田嘉博著『江戸始図でわかった「江戸城」の真実』(宝島社新書)から」

宇利城跡(トオル撮影)

宇利城の戦いって?

おいでよ天下人の城展
宇利城の戦いはどういう風に起きたんだろう?
にのさん
新城のある豊川中流~上流の奥三河は、戦国時代のこの頃は新城と呼ばれてなかったらしいよ。
おいでよ天下人の城展
あっ、城郭勉強家のにのさん!
にのさん
室町時代に、現在の新城市街地に近い、豊川中流の「野田」を拠点構えた富永氏がこのあたりを治めていたらしい。
おいでよ天下人の城展
ほぉ、富永さんですか。
にのさん
時代の変化と共に富永氏は衰退して支配するのは、野田周辺のみとなるんだけど、富永氏の代わりにこの地域を治める者に白羽の矢がたったのが、豊川上流の田峯(たみね)を治めていた菅沼定忠の子定則なんだって。
おいでよ天下人の城展
奥三河の3人衆の菅沼一族が台頭していくんですね。
にのさん
それから松平清康との出会いがあるんだよ。当時、東三河には駿河の今川家の影響が色濃かっただけど、今川氏親(うじちか)が没すると松平家が圧力をかけ始めただよね。
おいでよ天下人の城展
氏親は、義元のお父さんですね。
にのさん
松平清康が亨禄2年(1529)、東三河の平定に向けて侵攻を始めたのね。菅沼定則は菅沼家の将来を託すために、いち早く松平家の下に着く事を決意したの。
おいでよ天下人の城展
そこで宇利城の戦いに。
にのさん
それから宇利城の戦いでは東三河の諸将が松平家になびくなか、熊谷実長だけは従う事は潔しとしなかったために松平清康は東三河の諸将を引き連れて宇利城攻めをするんだよね。
おいでよ天下人の城展
松平右京亮が討死したりと厳しい戦いになったみたいですね。
にのさん
宇利城は三方の山に囲まれた天然の要害で、城は連郭式の山城で東西の尾根に曲輪が配置されている厳重なかまえ。これは攻める側も苦戦するね~

天然の要害宇利城(トオル撮影)

にのさん
そうした中で菅沼定則は城内にいた岩瀬庄右衛門と内通して、城内から火をかけてる事に成功したのよ。火はたちまち内の建物を焼き払い宇利城は落城してしまったんだよね。
おいでよ天下人の城展
なるほど、この功績が認められて定則は松平清康から宇利の地を賜ったのですね。

★8月14日~9/10までの展示

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【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
展示番号 14番

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