前期(8/15まで)、後期(8/16から)左右入れ替え
第5章 東海の要衝(本館7室2)
1・名古屋築城
展示番号 169番
大坂冬の陣図屏風の原本は東京国立博物館にありますが、大阪城にはそれを実際に手書きで写した肉筆模写のものがありますので、これをお借りして大坂の冬の陣の様子を伝えます。
藩主で唯一。戦国の合戦経験者の義直
名古屋城が完成するのが、大坂の冬の陣の直前、初代義直は歴代藩主の中ではただ一人戦国合戦に参加した経験のある方なんです。
名古屋城から出陣し、家康もここから出陣しているので、大坂の陣が一つの契機になっていることは確かですし、名古屋城の歴史の始まりでもあり、終わりでもある。築城の終わりでもあると言ったほうが良いかもしれません。
実は未完の名古屋城
名古屋城は大坂方の西側からの脅威を想定した上で作られていますが、北側は今の庄内川を外堀とし南は熱田、今の金山までの辺りまでとする、総構えとするプランでした。
その築城を指示したんですけど、途中で家康が死ぬことによってその計画は中止になってしまいます。
つまり、名古屋城完成しているようで、実は未完成の城なんです。
未完の場所はどこかというと、二之丸の北側です。後で古写真が出ますが、二之丸の北側には本来櫓を置かなければならない所に、義直の書斎としての迎涼閣とか、いわゆる書斎風の建物があります。
そしてその二之丸の対岸、今は残ってませんけど、名城公園の南側の堀沿いの所は石垣が築かれていて、自然地形のまま残されていたのです。
本来ならば直線形の石垣を築かなければなりませんが、そこまで防御性を強める必要がないとうことで工事途中で終わってしまった。
だから名古屋城は完成しているようで、実は完成してなないのです。
築城の終わりと表現したのは、大坂の陣というのがひとつ大きな契機なんですね。
歴史に「もしも」はありませんが、大坂の陣というのが、もっと後になっていたら名古屋城は違う形で完成されていた可能性がありますね。
きっともう少し櫓が立ち並ぶ重厚な建物になっていた可能性もありますが、途中で終わってしまった。
そのため、未完の北側は戦いに備えたフル装備の城ではなく、プライベート空間として独自に展開することになっていきます。
次は【170】
第5章 東海の要衝(本館7室2)
1・名古屋築城
展示番号 169番