今川義元木像 名古屋市・長福寺蔵
正徳4年(1714年) 全高45.0㌢
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道 清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)
展示番号 36番
第1章 天下布武への道 清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)
展示番号 36番
三河・江原村(現・西尾市)の渡邊氏(旧今川義元の家臣で桶狭間に参戦したという)から、義元供養のために寄進された木像。
今川義元(1519-60年)は駿河守護を務めた名門で、東国屈指の戦国大名に成長していました。永録3年(1560年)の時点では、西三河までを完全に制圧し、さらに尾張東部まで深く侵出していました。
永禄3年の桶狭間の戦いにおいて、今川義元は織田家の家臣・毛利義勝に討たれ、首を取られてしまいました。
その後、義元の首は、桶狭間の戦地に近い長福寺で首実検にかけられました。義元の茶坊主であった林阿弥が首実検を命ぜられ、その後、首は現・清須市の須ヶ口というところでさらされました。
義元が桶狭間で織田信長に敗れてからも、岡部元信という今川方の家臣は、鳴海城で奮戦を続けました。
その後、岡部は信長と交渉し、さらされた義元の首と引き換えに、鳴海城を明け渡すことにしたのです。
岡部は、駿河国を目指しましましたが、当時は初夏で、主君義元の首は 傷みが早く、岡部はやむなく途中立ち寄った東向寺(現・西尾市)に塚を築いて首を埋葬しましたと伝わります。
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道 清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)
展示番号 36番
第1章 天下布武への道 清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)
展示番号 36番