7/15~9/10開催の企画展「天下人の城」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について徹底リポート!

「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜

展示紹介

【13】春日井郡上品野山城絵図 知られざる今川義元の織田信長包囲網

更新日:

【13】春日井郡上品野山城絵図 蓬左文庫蔵

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
展示番号 13番

上品野山城(かみしなのやまじろ)とは、愛知県瀬戸市上品野町に現存する山城「品野城(しなの)」で織田家と松平家の攻防の舞台となったお城です。

当初は戸田氏、その後、織田信秀の領有となりましたが、三河国を制圧し、尾張国へ侵攻をかける松平清康により享禄2年(1529)に攻め落とされたと伝わります。清康没後は今川義元の支配下に入りました。

しかしその1年後、桶狭間合戦が行われた永禄3年(1560)に信長に攻略されて再び織田領となります。

おいでよ天下人の城展
永禄年間は織田、松平による奪い合いが行われていたのですね!
原さん
この品野城は現在でも遺構がほぼ残っているんですよ。

城跡は山の尾根にあり、品野川を挟んで対岸の低い丘陵に桑下城跡があります。
こちらは館城(平時の住居)として使われており、品野城が詰城(戦時に詰める城)という見方ができるそうです。

原さん
どちらの城も尾張藩の調査が入っており山城絵図として残っていますが、この形態が残る城は珍しいんですよ。
おいでよ天下人の城展
徳川美術館からはちょっと遠いですが、珍しい形態と聞いたら現地も見に行きたくなりますね。

次は【14】三州宇利古城図 真田丸や江戸始図の兄弟「極秘諸国城図」の1枚に家康の祖父の戦陣が描かれた理由

品野(しなの)城とは

ただし、たどり着くのは難しいです。読売新聞「東海百城」に選ばれています。

 東海百城ガイド(3)品野城 愛知県瀬戸市上品野町

尾張国の北東部に位置する山城。三河と美濃との国境近くにあり、山間部と濃尾平野を結ぶ交通の要衝。麓の上品野の集落を挟み込むように築かれた桑下城と一連の城だった。

尾張の織田氏と三河の松平氏が争奪戦を繰り広げていたが、桶狭間の段階では松平氏を配下にした今川義元の勢力下にあった。1558年には奪還を図る織田信長を撃退し、義元らから城主に感状(戦功に対して与える文書)が与えられた。桶狭間後に今川氏は城を放棄し、その後、信長と家康の同盟により廃城となったとみられている。

自然の地形を大規模に改変した堀切ほりきりや曲輪くるわが良好な状態で残る。今川時代の城の遺構が残る城跡は非常に少なく貴重だ。

名鉄瀬戸線尾張瀬戸駅からバス(本数少ない)で中町下車。麓の稲荷神社の本殿を正面に見て右側の尾根から山に入り、30分ほど尾根道を歩く。途中で高速道をくぐるが谷に下りず尾根へ戻る。山道は未整備。

おいでよ天下人の城展
なんでも、インターネットに流布している登り方は高速道が出来る前のルートで現在はなくなっているんだって。一人で行くのはちょっと危ないかもしれないから複数で行ってみてね。草の生い茂る真夏は特に要注意ですよ。

信長包囲網の今川義元渾身の一手

読売新聞の「探訪東海百城」では、第一部が「桶狭間の戦い」でした。そこでは、千田嘉博先生が、品野城の戦術的な意味を説明しています。一部引用します。

今川義元の尾張包囲網(富永商太・絵)

 1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで、織田信長は大軍の今川義元を破った。この両雄について、東海百城を選出した3人の研究者に語ってもらった。

――信長の2000の兵に対して10倍以上となる2万5000もの兵を有しながら敗北した義元は愚将というイメージが強い。

本郷和人・東大史料編纂へんさん所教授(日本中世史) 「愚かではない」ことを証明するのは難しいのですが、義元はすぐれた政治家でした。領国内の法律である「今川仮名目録」を義元らが作るなど、法に基づく政治を行おうとしたのは戦国時代では非常に珍しいケースです。先進的と言われる信長もこうした法は作っていません。

義元は父が制した遠江国(静岡県西部)に加えて三河国(愛知県東部)も平定しています。あの武田信玄も義元が生きている間は今川領に手を出しておらず、戦国武将としても優秀だったと言えます。

千田嘉博・奈良大学長(城郭考古学) 城から見ると、義元は桶狭間方面の東海道を一点突破で単純に突き進んだのではなく、北側の山城である品野城(同県瀬戸市)を抑えたように、面的にじっくりと包囲しようとしたことがわかります。「信長公記」によれば、尾張西部の港の水軍も今川方に付いています。

本郷 10対1という兵力差について僕は疑問に思っていますが、みなさんはどうでしょうか。

磯田道史・国際日本文化研究センター准教授(日本近世・近代史) 今川軍の戦死者を見ると、遠江の武将がかなり並んでいます。当時は敵地に近い軍勢から攻めるというルールがありました。そのため、大高城(名古屋市)は徳川家康ら三河衆が、その次には遠江衆が、そして最後に義元の駿河衆がいたと考えられます。

今川は北条と武田との婚姻による同盟が1554年(天文23年)に成立したとはいえ、その年にも北条氏が駿河東部に侵攻していましたから、とても大量の駿河衆を桶狭間に投入できる状態になかったと思います。信長の攻撃が成功したのは、このとき桶狭間の駿河衆が馬回り(親衛隊)くらいの数しかいなかったからなのでは。

千田 信長は本拠の清須城(愛知県清須市)をわずか6騎で出ています。その後、善照寺砦とりで(名古屋市)などの兵を吸収して2000となったわけですが、これも最初の攻撃に参加した数だけで、信長が出撃したことに気づいた清須城の本隊があとから追ってきて増えた可能性もありますね。

本郷 源平合戦の時代から、合戦の兵数はサバを読むのが常識でした。今川の中核の部隊が駿河に残っていたと考えると、今川軍はもしかしたら1万くらいだったかもしれません。一方の織田軍は2000よりは多く、もちろん今川のほうが優勢だったけれども、両者の兵力はこれまでの通説ほどの差はなかったのでしょう。

千田 ただ、もしも義元が品野城経由で北から攻めていたらどうなっていたでしょうか。尾張は信長が前の年に再統一したとはいえ、北側は犬山城(同県犬山市)や暗殺した実弟がいた末森城(名古屋市)など反信長の勢力がいましたから、桶狭間のような結果にはならなかったと思います。家康の祖父が尾張に攻め込んだ実績もある品野城ルートを使わせないために、信長は城や砦を使った綿密な戦略で義元を上回るのです。

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第1章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
展示番号 13番

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