7/15~9/10開催の企画展「天下人の城」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について徹底リポート!

「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜

展示紹介

【59-61】濃州厚見郡岐阜図、濃州岐阜城之図、岐阜城図 謎が多い信長時代の岐阜城を味わう

更新日:

【59】濃州厚見郡岐阜図
【60】濃州岐阜城之図 前期8/15まで
【61】岐阜城図 後期8/16から

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道
三・小牧城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第二室)
展示番号59-61番

ここからは岐阜城の図面を3つ紹介します。

原さん
「【59】濃州厚見郡岐阜図」は城下町を囲んでいる図面ですね。 今の重要文化的景観はこのエリアで決められていて、江戸時代の尾張藩の土地を描いています。 特徴としては、総構の土塁が明瞭に残っていることで、かつての岐阜城下町の様子がよく分かる図面ということです。
おいでよ天下人の城展
城下町を知る手がかりになる図なんですね。では【60】【61】はどんなことがわかるんですか?
原さん
【60】【61】というのは江戸時代に描かれた岐阜城の想像図です。 特に根拠はなく、山頂には江戸時代風の白亜の天守が建っているというだけ。しかし、郭配置など一部は現実に即している部分もあることから、何らかの図面を元に描かれた可能性はありますが。
おいでよ天下人の城展
あまり正確なものではないんですか。なんだか残念。
原さん
それがそうでもない点もありますよ。 これは私の推論ですが「【61】岐阜城図」に描かれている天守は、岐阜城を壊して加納城を建てた際に、岐阜城の天守は加納城の二之丸の御三階櫓として移されたのではないかと。
おいでよ天下人の城展
岐阜城図とは岐阜城のお土産でよく見る図ですよね。

原さん
そうですね。この櫓は享保年間に落雷により消失してしまったのですが、かつての立図面は残されていて、3階建てで火灯窓を持ち、1階目には張り出しがある構造が【61】の天守とよく似てるんですよ。
この図自体は幕末のものなんですが、古い図は江戸中期のもの。ということは、加納藩に関係する人物たちがこの伝承を知っていて【61】は加納城二之丸御三階櫓を岐阜城の天守として描いた図ではないかと考えています。 でもこの説に根拠はないですし、それが確かならば描かれた城は信長の時代のものではなく、池田輝政あたりの城だと思います。

おいでよ天下人の城展
原さんの推測を聞いたら加納城も気になってきました。

次は【62】木下秀吉等連署状 信長の美濃領再分配を差配した秀吉最古の原文書

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道
三・小牧城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第二室)
展示番号59-61番

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