脇指 無銘 号「あざ丸」 熱田神宮蔵
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第一室東側)
展示番号 29番
原さん
おいでよ天下人の城展
原さん
あざ丸は「信長公記」に出てくる刀で織田信秀と斎藤道三が争った天文十三~十七年(1544~48)頃に、尾張の織田方と美濃の斎藤方の武将の間を転々とした刀です。
おいでよ天下人の城展
確かに、敵と味方を転々としたというだけで、かなりの力を纏っていそうですね。なぜ妖刀なのでしょうか。
原さん
この刀のいわれですが、当初は熱田社の大宮司である千秋季光が持っていた刀でした。宮司ですが武将でもあったので従軍し、織田信秀(信長の父)が斎藤道三に大敗した加納口の戦い(展示17参照)で討ち死にしてしまう。討ち死にした際に、持っていた刀は斎藤方の陰山掃部介(かげやまかもんのすけ)の手に渡った。もしかしたら、陰山が討ち取ったのかもしれません。
おいでよ天下人の城展
原さん
陰山は、当時まだ織田信秀がおさえていた大垣城(岐阜県大垣市)に出陣した時に、大垣城から闇雲に飛んできた矢が左目にぶすっと刺さりました。その矢を抜こうとしましたが、また飛んできた矢に右眼を射られてしまった。
おいでよ天下人の城展
原さん
その後の生死は不明ですが、矢によって両眼を射られ失明してしまいました。その後、この刀は信長の家臣・丹羽長秀の元に渡りますが、丹羽長秀も刀を手に入れた途端に眼病に悩まされるようになってしまうのです。
おいでよ天下人の城展
原さん
これはいけないということで刀を熱田社に奉納したところ、眼病が治ったという妖刀中の妖刀です。
おいでよ天下人の城展
原さん
あざ丸は元々展示1でも名前の出てきた平景清が所持していたと伝わり、景清のの顔の痣(あざ)がうつったなど、どれを聞いてもあまり気持ちのよい話ではないのですが。。。熱田神宮に戻されて、その霊力で守られている刀を、徳川美術館に持ってくるというわけで、冒険的な行為をするということです。
おいでよ天下人の城展
原さん
神宮から外へ出すのは心配だったのですが、慰めてもらったのは、美術館のあたりも、熱田神宮の神域下であるので良いのではないかと。以前に岐阜に展示のために持って行ったことがあったが、あれは木曽川を越えてしまったからいけなかったのだろうと・・・なにがいけなかったかは分かりませんが、今回その妖刀を持ってきます。
おいでよ天下人の城展
『現代語訳信長公記』(人物往来社)より引用します。
首巻
5 平景清所持の名刀あざ丸
先年、尾張の国から美濃の大柿の城へ織田播磨守を入れておいた。
去る九月二十二日、斎藤道三は大合戦に打ち勝って、「尾張の奴らは足も腰も立たないだろうから、このさい大柿城を取り囲み、締めあげてしまおう」と言って、近江の国から援軍を頼み、十一月上旬、大柿城の間近まで攻め寄せた。
この時、奇怪なことがおこった。
去る九月二十二日の大合戦のおり、千秋季光は、もと平景清の所持していた名刀あざ丸を差していて討ち死にした。この刀を美濃方の影山一景が手に入れて差し、このたびの城攻めに参陣した。西美濃大柿の隣、牛屋山大日寺の寺内に陣を構え、床几に腰を掛けていたところ、城内からはなはだ強い弓で、矢尻の先を丸くした矢を空に向けて、寄せての方へ射かけてきた。その矢が影山一景の左の眼に当たった。それを引き抜いたところ、また二の矢に右の眼を射つぶされた。
その後、このあざ丸はめぐりめぐって丹羽長秀の所有となったが、長秀はしきりに眼病をわずらうようになった。「この刀を所持する人は必ず眼病になる、という噂を聞きました。熱田神宮へ奉納なさったほうが良いですよ」と人々が忠告したので、熱田神宮へ奉納したところ、すぐに眼もよくなったそうである。
大柿=大垣、岐阜県大垣市
近江=滋賀県
平景清=源平時代の武将、のち盲目になったという。
牛屋山大日寺=大垣市
熱田神宮=名古屋市熱田区
図録『熱田神宮の宝刀』によると、
刃長54・7 反り1・5
景清の顔にあったあざが刀身に写ったため「あざ丸」と称するという。
社伝では、伯耆安綱の作とも古備前助平の作などとも言われてきたが、それらに比して姿や地刃が幾分若いのではとの指摘もある。
平景清、覚えていますか?展示番号【1】のよろいの持ち主と伝わる東海地方の源平合戦時のダークヒーロー(平家側の武将)です。
次の展示は【30】二十四間阿古陀形兜 織田家の家紋「木瓜」(もっこう)ってどんな形
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第一室東側)
展示番号 29番