132~136 いずれも金箔押の桐紋瓦 木瓜紋飾 飾り瓦 鬼瓦、押瓦(清州城下町遺跡出土品)愛知県埋蔵文化財調査センター蔵
第2章 巨大城郭の時代 (本館7室①)
4・清須城
展示番号 132~136番
132の桐紋(朝廷からくだされた豊臣家の家紋)の瓦は豊臣政権下で選ばれた城や城主しか使えません。(歴史、清須城主には信雄のほか、豊臣秀次、福島正則もいる)。
また、133の木瓜紋(織田家の家紋)の瓦は、織田家の惣領の城にしか許されなかったものです。(木瓜紋については【30】二十四間阿古陀形兜 織田家の家紋「木瓜」(もっこう)ってどんな形】)
信雄が織田家の惣領を継承していたことを示す証拠になります。
次は(5)伏見城 秀吉の隠居場所が「公」の城に 【137】豊臣秀吉朱印状 瀧川彦二郎ら宛
その後の信雄
織田信長が入城した前期の清洲城跡から、鍛冶屋や鋳物師などの金属加工関連の職人を集めた事は発掘調査で明らかにされています。
信長と言えば、「革命児」の印象が強い。古い時代を否定し、ゼロから作り出す創造力があるようにみえる。
その一つが「城下町」だ。
大名の城に付随して、商人や鍛冶などの職人たちが町をつくることは当たり前と考えがちだが、現在も多くの地域で残る城下町の形は信長が初めて築城した小牧山城(同県小牧市)から始まったとされている。最近、これをさらに遡る考古学上の発見があった。
「信長が、武士と商工業を一体化しようとした第一歩ともいえる発掘成果」と、愛知県内各地で発掘調査に携わり、2010~11年、清須城の城下町跡(同県清須市)を調査した同県埋蔵文化財センターの鈴木正貴主任専門員(53)(肩書、年齢は連載当時)が話す。
清須城は、信長が小牧山城を造るまで本拠地とした城で、鈴木さんが出土物や遺構を精査したところ、武家屋敷の一部を鍛冶職人たちの作業所として改修していたことが判明したのだ。
信長は小牧山の麓の平原に、商人や鍛冶職人たちを決まった場所に集住させる城下町を計画的に造成していた。今回の発見は、小牧の前に清須城で城下町造りの「実験」をしていたことになる。
◇
「戦国時代に、各地で商工業者が集まる都市が生まれますが、そのほとんどは、神社や寺の門前で、武士の拠点とは別でした」と鈴木さんは説明する。
なるほど、港町の熱田と津島(同県津島市)はそれぞれ熱田神宮と津島神社の門前町であり、それらの権益を押さえた信秀だが、城はいずれも約3キロ離れた古渡城(名古屋市)や勝幡城(同県稲沢・愛西市)で一体とはいえない。武士たちは、武具の整備や調達などを城から離れた門前町で注文していたのだ。
「商人や職人は有力な寺社と強く結びついており、鍛冶などの職人を寺社の影響力から引き離すことは、信秀時代には簡単にはできなかったのでしょう」と鈴木さん。
だが、信秀も戦いを続ける中で、武具の調達やメンテナンスを手元で常時行う必要性を感じたのではないか。鈴木さんは「ひょっとしたら信秀も職人たちを取り込もうとしたのかもしれませんよ」と笑い、「末森城も、若い頃の信長がいた那古野城(名古屋市)も、津島や熱田などの商業都市からは離れ過ぎています。どちらかというと、小牧山城と似た内陸に孤立した場所です」と続ける。ただ、すでに一部が発掘されている那古野城でもその証拠はまだ見つかっていないし、末森城はそもそも発掘されたことがなく「まったく謎のまま」(鈴木さん)だ。
城下町という新しい都市の概念は、信長のオリジナルだったのか、それとも父の発想を基にしたものだったのか。(読売新聞 連載「探訪 東海百城」より引用)
息子の信雄時代になると織豊系城郭で使用される瓦などが発見されます。
信雄が清須城に居を構えたのは天正14年、すでに父信長は天正10年本能寺の変で明智光秀に討たれた後です。織田信長時代は、金箔瓦の使用できるのは織田家身内・連枝衆などごくごく限られた人にしか使えない瓦でした。
その後豊臣秀吉の台頭で織田信雄の立場は危うくなります。しかし、秀吉は金箔瓦の使用を信長に比べて「解放」しており、清須城でも今回の展示品のような金箔瓦が使用されています。
織田信雄の家系は大名として、明治維新を乗り越え、現代まで続いています。(読売新聞同連載での信雄の直系子孫の織田信孝さんのインタビュー記事)
なんだかんだ言っても織田家の名前を残した信雄はやっぱり凄い人なんですね。
まとめ:にの
次は(5)伏見城 秀吉の隠居場所が「公」の城に 【137】豊臣秀吉朱印状 瀧川彦二郎ら宛
参考写真 清須市教育委員会所蔵
第2章 巨大城郭の時代 (本館7室①)
4・清須城
展示番号 132~136番