【10】伊勢宗瑞(北条早雲)書状巨海越中守宛 徳川美術館蔵
第一章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
展示番号 10番
三河が誰が支配したのかに関しては、松平清康(家康の祖父)在命時には織田VS松平、清康が守山(名古屋市守山区、いわゆる守山崩れ)で死亡して以降は織田VS松平・今川となりますが、それより以前の状況に関する資料としてこの書状を展示します。
伊勢宗瑞(いせそうずい、北条早雲)が吉良家(西尾市)の家臣である巨海越中守に対して出した書状。永正3年(1506年)伊勢宗瑞がおいで駿河の今川氏親と東三河に侵攻した際に便宜を受けたことに対するお礼が述べられています。
この時、牧野氏の今橋城(後の吉田城=豊橋市)を攻略し、これ以降今川氏の三河侵攻が続きます。
今橋合戦から2年後の永正5年(1508年)には、今川氏親の名代の伊勢宗瑞率いる今川軍が岡崎まで攻め入り、井田野で松平軍と合戦になりました。松平家の記録では、今川軍を退けたとあるが、宗主家であった岩津松平家は多数の戦死者を出し没落、代わって家康の直接の先祖にあたる安城松平家が台頭することとなりました。
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北条早雲はなぜ東海へ下向したのか?
読売新聞「探訪 東海百城」の「北条早雲」シリーズで、天下人の城展の応援団でもある丸島和洋さんが当時の解説をしています。
昨年のNHK大河ドラマ「真田丸」の時代考証を務め、東日本の戦国大名の歴史に詳しい丸島和洋・慶応大非常勤講師(日本中世史)に当時の複雑な時代背景を含めて解説してもらった。
「本人は『北条』とも『早雲』とも名乗ったことはなく、伊勢宗瑞と称していました。伊勢氏は室町幕府の将軍に仕える重臣の一族で名門です」
丸島さんは、伊勢出身の素浪人という説を否定。丸島さんによると、早雲は、30歳代に2度、京都から駿河へ派遣されている。1回目は将軍の秘書にあたる「申次(もうしつぎ)衆」だった32歳の時で、1487年。姉が嫁いでいた駿河守護の今川氏の家督争いで、正室だった姉の息子・氏親(義元の父)を支援するためだった。
2回目は91年。その2年後に伊豆の堀越御所(静岡県伊豆の国市)にいた堀越公方の後継者と戦い、伊豆を奪い取った。
「早雲は将軍の親衛隊『奉公衆』(申次衆はその中の役職の一つ)に属しており、2回の派遣とも、将軍の許可があったことは明白で、旧説の下克上を狙った早雲の個人的な野望とはいえない」と言う。(一部引用)
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書状あれこれ
第一章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
展示番号 10番