7/15~9/10開催の企画展「天下人の城」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について徹底リポート!

「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜

展示紹介

【3】中島郡勝幡古城絵図 織田信長が生まれたお城は名古屋でなくて勝幡城なんです

更新日:

中島郡勝幡古城絵図 名古屋市蓬左文庫所蔵

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第一章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
展示番号 3番
原さん
すぐれものの城の図面です。尾張藩が17世紀ごろに、どういう目的かわからないが極めて正確に古城を調査し、測量的な技術も使って描かれています。 正確に言うと廃城になった時点の城の形が良く分かります。
おいでよ天下人の城展
廃城となった遺跡の図ですか。だから建物がある訳ではないのですね。
原さん
堀だった部分は田んぼになっていることがわかります。土塁が残っていることや干上がった堀の形状、溝の形状などもはっきり書かれています。虎口や櫓台などの形状が残っていて、信長が生まれたとされる当初の勝幡城の形を記録した図面です。
おいでよ天下人の城展
今は勝幡城跡はどうなっているんでしょうか?
原さん
江戸時代の天明年間(1781~89年)に日光川の河川改修で、城の中心部を川が通ってしまったために、残念ながら完全に川の底です

おいでよ天下人の城展
徳川美術館で往時の様子を振り返るしかないんですね。

次は【4】満済准后日記写 今川氏が名古屋にいたことがわかる最古の記録

勝幡城の中心部は日光川の開削でほぼ消滅しています

勝幡城は信長が生まれた場所?

勝幡出生説を紹介する読売新聞の連載「探訪 東海百城」から一部引用します。

 現在の名古屋城と同じ場所にあった那古野なごや城と覚えている人が多いかもしれない。だが、平成になって刊行された歴史書では、勝幡城(愛知県愛西、稲沢市)とされているのがほとんどだ。かつての定説を覆したのが前回も紹介した愛知県愛西市の佐織公民館館長の石田泰弘さんだ。

(略)

 信長の父・信秀は勝幡城を本拠としていたが、後に、今川氏の居城だった那古野城を奪取して本拠を移している。

 那古野城が落城したのは、信長の生まれ年である天文3年(1534年)を挟んで、元年(32年)説か、7年(38年)頃説があった。元年なら信長の那古野城出生もありうるが、7年頃なら成り立たない。

 決め手となったのは、京都の公家、山科言継やましなときつぐが勝幡城に信秀を訪ねた時の日記の記述だった。天文2年(33年)に「那古野の今川竹王丸」という12歳の男子が勝幡城に招かれて、一緒に蹴鞠けまりをしたことが書かれていた。

 竹王丸とは誰かと疑問に思っていたところ、別の研究者が、駿河(静岡県)の今川義元の実弟で、のちに元服して那古野城主となる今川氏豊うじとよであることを突き止めた。那古野城は今川氏が古くから飛び地として持っていた土地であった。これで、天文元年落城説と信長の那古野城出生説はともに消えた。

 「那古野城出生説は、江戸幕府の公式な資料である『寛政重修諸家譜』で採用されており、後の研究者も信用してきたのではないでしょうか」と石田さん。

(略)

 石田さんは信長の誕生日についても調べた。定説は、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが「信長は誕生日の19日後に本能寺の変で焼死した」との記載から、引き算で計算された5月11日か12日。しかし、尾張などに関する信頼性の高い三つの史料で「5月28日」と記されていることを確認した。「地元の資料を丹念に調べることで、地元でも忘れられていた信長や父・信秀の歴史を掘り出すことができた」と振り返る。(略)

この話の詳細は展示番号【6】言継卿記(写)天文二年(1533年) 信長がナゴヤ生まれでないことを証明した決定的証拠にもあります。

おいでよ天下人の城展
ちなみに記事にある「別の研究者」は小和田哲男先生なんですって。

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【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第一章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
展示番号 3番

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