脇指 銘 吉光 名物 鯰尾藤四郎 徳川美術館蔵
第2章 巨大城郭の時代 四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(二)大坂城
展示番号101
少しオーバーな言い方をすると、この鯰尾藤四郎は小牧長久手の合戦を引き起こした刀といえます。
東博の岡田切は、e-国宝というサイトで写真を見ることができます。
これはどういう道具であるかということが蔵帳という管理記録にずっと書きつつかれていまして、全部で550冊あります。
一番古い管理記録は家康が亡くなったときに贈られた遺産の目録で、駿府御分物御道具帳というものがありまして、尾張家に何が贈られたか全部書いてあいます。消耗品なども含まれますが、その中でも200点近く残っています。
次は【102】羽柴秀吉書状 称名寺宛 小牧・長久手だけでなく伊勢方面にも目を配る秀吉の「天下人」たる視野の広さ
刀は血を吸っている?人を斬ったとされる刀は徳川美術館で鯰尾藤四郎ただ一振
ここからは鯰尾藤四郎や刀についてもう少し詳しく説明していきます。
昨年の秋季講座でのお話ですが、美術品として伝えられた刀の90%以上は、実際には人を斬ったことがない刀なのだそうです。
特に徳川美術館の刀は、ほとんどが高級贈答品としてのもの。
先日、「なまず」コラボが行われた名古屋市水族館のパネル説明を読んで、徳川美術館の刀剣のうち、人を斬ったとされる刀はこの鯰尾藤四郎ただ一振だと書かれていたことに驚いた方も多いのではないでしょうか。
大坂城落城にも立ち会った刀
その後この刀は豊臣秀吉、秀頼の手に渡りました。
手元の古い図録を見ると「光徳押形に「秀頼様相口(合口)拵両度寿斎仕候」とあり、秀頼が好んで用いたことが知られる」とあります。
そして大坂落城時に焼けたものを家康が初代越前康継に焼き直させ、家康の死後の遺産分割で尾張徳川家へ相続されました。
鯰尾藤四郎には拵(こしらえ)が付属しています。が、これ実はかなり新しいです。
2016年夏の展示リストを見ると十四代慶勝公と十五代茂徳公の所持となっています。
どちらも幕末史の本にちらっとお名前だけ出てくるような方々です。(尾張徳川家のご歴々については「「徳川美術館」はなぜ江戸や水戸でなく名古屋にあるのか?」(武将ジャパン))
今回の展示最後のほうには慶勝公の関連の写真などの品があります。
キックオフミーティングでこの話を原さんから聞いたあとに、応援団員から「刀が焼けるってどういうこと?鉄でしょう?」という疑問があがりました。
確かに、私たちの生活で身近にある鉄はフライパンなどの火に接して使うものがほとんど。パンを切る前には包丁をすこし火であぶるなんていうことも日常的にしているのではないかと思います。
が、実は刀は、火に対してとても弱いものなのです。
実は火に弱い刀
日本刀を鑑賞するときのポイントとして、姿(全体の形)、地鉄・鍛え(刃ではない地の部分の様子)、刃文の3つを見ます。
姿でその刀が作られた時代が、地鉄・鍛えでどの地域で作られたものなのか、刃文でどの刀工の作なのかがわかるのです。
ですが、火災にあった刀は反りが伸びて姿が変わり、地鉄の美しい状態が失われ、刃文も失われてしまいます。
有名なところだと、坂本龍馬佩用の陸奥守吉行(京都国立博物館蔵)などは、一見きれいにみえますが、元々の特徴は刃文がごくわずかに残る以外、元々の特徴はなくなってしまっており、疑問視する声がごく最近まで一部にありました。
他に、水戸徳川家伝来の燭台切光忠、児手柏(徳川ミュージアム蔵)なども、こちらはいかにも焼けてしまったという感じの真っ黒な色になっており、刃文もわからない状態です。
上記の例は、焼けてもまだきれいな見た目をしているのですが、もっとひどい状態のものを比較的近くで見ることができます。
岐阜城の展示コーナーには被災刀があります。
シルエットだけ見れば確かに刀なのですが、表面はぼこぼこと歪になっており、よくわからない鉄の棒といった風情。
昨年の秋季講座で聞いた中には、「刀は焼けるとくるくるとリボン状に変形してしまう」などという話もありました。
鯰尾藤四郎がどの程度まで焼けたのかはわかりませんが、そうやって変わってしまった刀を、また形を整え、刃をつけなおすのが再刃です。
元々の作者の特徴は消えてしまっているので、純粋に美術面で見るときにはマイナス評価になります。
また、大正の頃の刀剣研究家、羽皐隠史氏の本には、再刃した刀は大変切れ味が悪くなってしまう、などという話も出てきます。
それでも残したい、なくしては惜しい、と思われたほどの名刀だったから、こうして焼き直されて今に残っているのですね。
参考資料
『駿府御分物刀剣と戦国武将画像』徳川美術館 昭和49年10月
徳川美術館 2016夏季特別展『信長・秀吉・家康 それぞれの天下取り』展示目録
『没後150年 坂本龍馬』京都国立博物館 平成28年8月
『刀剣春秋』第758号 2015年8月
「焼直し物のこと」『刀剣一夕話』羽皐隠史 大正4年(国会図書館デジタルライブラリーインターネット公開 135コマから)
信雄が岡田を刺したのはどっち?
ここから先は、不確かでもいいから逸話を追いたい、と調べた結果のご報告です。
ただし、歴史というよりロマンの類であることをご承知おきください。
大正元年に発行された羽皐隠史氏の著書に、岡田切一文字の逸話について書かれたものがあります。
そこには、岡田重孝殺害の場面が、「短刀で刺してから斬った」描写がされています。
実は、古い時代だと、現代でいうところの短刀まで含めて「脇指」と呼んでいる場合があるので、短刀と脇指の表記が変化することは十分考えられます。
一般向けの軽い読み物とはいえ、著者の社会的立ち位置を考えると、相応の種本があるんじゃないか、そちらでは「短刀」ではない書き方をしているんじゃないか。
そう考えたまではいいものの、ずぶの素人ですので何を探してよいものか全くわからず、プロに聞くことにしました。
レファレンスサービスと呼ばれる図書館のお仕事をご存知でしょうか?
図書館の主要業務の一つで、調べ方がわからない調べものの手伝いをしてくれるサービスです。
名古屋市図書館のメールレファレンスに、羽皐隠史の岡田切一文字の項についての元資料と思われる資料について知りたい、と尋ねたところ、『常山紀談 巻六』「織田信雄長臣を誅せられし事」ではないか?というお返事をいただきました。
そしてそちらを実際に見てみたところ、羽皐氏の著書で「短刀」となっていた箇所は、原文では「小脇差」であることが確認できました。
というわけで、歴史扱いしてはいけない逸話ではありますが、両方使った説をクリアできるものがありましたよーというご報告です。また、伊勢国司記略にも、同じものを種本にしたのではないかという話があるのですが、羽皐氏の著書とはかなりの温度差があります。
物語の変化の一例として見ると面白いのではないかなと思います。
「岡田切一文字」『英雄と佩刀』羽皐隠史 大正1年(国会図書館デジタルライブラリーインターネット公開 126コマから)
『伊勢国司記略 卷七 家傳尾』斎藤拙堂 昭和8年(国会図書館デジタルライブラリーインターネット公開 巻7は147コマから。三重臣の処断は155コマから。)
早稲田大学図書館古典籍データベース(http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/index.html)より、『常山紀談』3の43コマ~45コマ。活字化されたものは岩波文庫等、現代語訳は『戦国武将逸話集 訳注『常山紀談』巻一~七』湯浅常山/原著 大津雄一・田口寛/訳注 がありますが、どちらも書店では品切しているので図書館で探すのがよいと思われます。
ほかに、信長公記の、天正9年7月の記載の中には、信雄が信長から「吉光の脇差」をもらう場面があります。
他の物を指している可能性も重々ありますが、可能性の一つとしていかがでしょうか。
『現代語訳 信長公記』太田牛一著 中川太古訳は文庫本でお手軽に読めるのでおすすめです。
まとめ・セツカ
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第2章 巨大城郭の時代 四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(二)大坂城
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