言継卿記 写 天文二年条 名古屋市蓬左文庫蔵
第一章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
展示番号 6番
信長が那古野城生まれでないという説の最初となった史料。公家の山科言継(やましなときつぐ)による大永7年(1527年)~天正4年(1576年)までの日記。
展示物は、天文二年(1533年)7~8月に言継が勝幡城を訪れた際の記録です。言継は織田信秀の勝幡城(稲沢市・愛西市)に滞在し、織田一門に蹴鞠を指南したと書いてあります。
信長の出生について、従来説では江戸時代の記録を元に、天文元年に信長の父、織田信秀が那古野城(現・名古屋城の地下)を手に入れたとされていました。
信秀は居城を勝幡城から那古野城に移しているので、天文三年生まれの信長は、父の居城だった那古野城で生まれたと考えられていたのです。
ところが、この史料によると天文二年時点で「今川竹王丸、在なごや」とあります。つまり天文二年時点ではまだ今川氏が那古野城におり、天文元年に信秀が那古野城を奪った説が否定されるのです。
ただ、この時点では信長出生前に那古野城を手に入れた可能性も残るのですが、後に発見された三重県・神宮文庫にある天文五年の記録に、五年の時点でも今川氏が那古野城に居るとありました。このことで信長出生時に、那古野城は今川の城であり信長が那古野城で出生した説は否定されました。
信長が勝幡城で生まれたと明示する記録は残っていませんが、出生時点で父の居城が勝幡城であり、母が正室の土田御前から考えると、勝幡城かその周辺で生まれた可能性が極めて高いといえます。現在では稲沢市・性海寺(しょうかいじ)所蔵文書などから信秀が那古野城を奪ったのは天文七年(1538年)頃と考えられています。
次は【7】尾州名護屋慶長以前古図 江戸時代に作られた名古屋城の地下に眠る那古野城の想像イメージ図
*再掲になりますが【3】中島郡勝幡古城絵図の紹介記事でも載せた「信長の勝幡城出生説」についてです。
勝幡城は信長が生まれた場所?
勝幡出生説を紹介する読売新聞の連載「探訪 東海百城」から一部引用します。
現在の名古屋城と同じ場所にあった那古野城と覚えている人が多いかもしれない。だが、平成になって刊行された歴史書では、勝幡城(愛知県愛西、稲沢市)とされているのがほとんどだ。かつての定説を覆したのが前回も紹介した愛知県愛西市の佐織公民館館長の石田泰弘さんだ。
(略)
信長の父・信秀は勝幡城を本拠としていたが、後に、今川氏の居城だった那古野城を奪取して本拠を移している。
那古野城が落城したのは、信長の生まれ年である天文3年(1534年)を挟んで、元年(32年)説か、7年(38年)頃説があった。元年なら信長の那古野城出生もありうるが、7年頃なら成り立たない。
決め手となったのは、京都の公家、山科言継が勝幡城に信秀を訪ねた時の日記の記述だった。天文2年(33年)に「那古野の今川竹王丸」という12歳の男子が勝幡城に招かれて、一緒に蹴鞠をしたことが書かれていた。
竹王丸とは誰かと疑問に思っていたところ、別の研究者が、駿河(静岡県)の今川義元の実弟で、のちに元服して那古野城主となる今川氏豊であることを突き止めた。那古野城は今川氏が古くから飛び地として持っていた土地であった。これで、天文元年落城説と信長の那古野城出生説はともに消えた。
「那古野城出生説は、江戸幕府の公式な資料である『寛政重修諸家譜』で採用されており、後の研究者も信用してきたのではないでしょうか」と石田さん。
(略)
石田さんは信長の誕生日についても調べた。定説は、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが「信長は誕生日の19日後に本能寺の変で焼死した」との記載から、引き算で計算された5月11日か12日。しかし、尾張などに関する信頼性の高い三つの史料で「5月28日」と記されていることを確認した。「地元の資料を丹念に調べることで、地元でも忘れられていた信長や父・信秀の歴史を掘り出すことができた」と振り返る。(略)
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第一章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
展示番号 6番