いずれも伏見城跡【140】桃陵中学校遺跡出土金箔押瓦 【141】松平三河遺跡出土金箔押瓦 【142】桃山町永井久太郎遺跡出土金箔押瓦 【143】伏見城各所出土金箔押瓦
第2章 巨大城郭の時代 四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(五)伏見城
展示番号140~143 番
大名の名前や官職名が地名になっている京都・伏見城の屋敷の特定は結構難しい
これらは伏見城から出てきた金箔瓦ですね。
綺麗な物は、伏見の桃陵中学校という所から出てきた金箔瓦です。大量に良い状態の瓦が出てきますけれども、なかなかどの大名の屋敷までは特定が難しいのです。
人名を特定しやすい地名があるというおとは、伏見(名古屋ではないです。京都の)に行かれた方は分かると思いますけど、大名屋敷の名前がそのまま町名になってるわけですよね。
ここにあります、松平三河っていうのは、伏見区松平三河っていう町名になっています。
では、松平三河って言えば、当時三河守の家康の冠位ではあるから家康の屋敷か、というと、実は、結城秀康のことを指しているのです。
それじゃあ、ここに結城秀康の館があったか?と思いますよね。
ところが、出てきた瓦が丸に扇紋なんですよね。
これ常陸(茨城県)の佐竹家の紋なんですよ。
はたして、現在の松平三河町にあった屋敷は出土した紋に従って、イコール佐竹かどうかは分らないにしても、必ずしも現在残っている町名の所に、その大名が居たというわけではないんですね。
金に輝く大名屋敷
永井久太郎はどうでしょう。
結論から言うと、永井家と、有名な堀久太郎を一緒になって付けられたものです。
永井家に永井久太郎って人は居ませんから。
そういうふうに後世にちょっと混交がある部分はあります。
けれども、大名屋敷の跡地から、いっぱい金箔瓦が出てくるということは、
やはり伏見城下もキンキンキラキラというような状態だったことは分かるのです。
その後、徳川家康の江戸の町においても、江戸図屏風なんかに描かれてますように、城下の大名屋敷もキンキンキラキラというような状況です。
しばらくの間は金箔瓦の屋敷が江戸時代のはじめまで展開しますけども、やがて消えて無くなっていきます。
次は(六)家康の城【144、145】徳川家康画像、徳川家康画像、東照大権現像模本 発見者の愛ある修復と、模写の技術を味わう
第2章 巨大城郭の時代 四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(五)伏見城
展示番号140~143 番