小牧山城主郭出土品 小牧市教育委員会蔵
第1章 天下布武への道
三・小牧山城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第二室)
展示番号57番
(今回の6時間展示品解説会には小牧山城を発掘している担当の小野友記子さんがいらしていたのでした。)
信長ファーストな小牧山城
本来は一番の発見でもある石垣を展示していたもらうべきだったかもしれませんが、ちょっと重かったので実現しませんでした。
出土した「佐久間」の墨書がある石垣の石材が小牧山資料館に展示してあります。これは全国にある石垣の中でも、おそらく最古の墨書のある石垣です。
なにより、信長の重臣である佐久間盛政らを想定させる「佐久間」とあるのが面白い。
原さんにお持ちになるか確認したところ93キロなので見送る方向となりました。大人4人くらいで運べないこともないのですが、本物が見たい方はぜひ、小牧まで足を運んでください。
さて、今回、展示させていただくのは、山頂の城の主郭(中心部)、新町という武家屋敷、それから職人町の上御園町の3か所に分けて、それぞれ何点かを出展しています。
城下町の2か所については前項で紹介していただいたので、私は主郭部の出土品の中で、面白いと思うものを2点あげさせていただきます。
県内初出品 猿のかたちをしたスポイト
まずは、小牧山城の主郭部から出土した「灰釉猿形水滴」(かいゆうさるがたすいてき)です。
これは文房具の一種で、今でいうスポイトに当たるものです。
水を硯(すずり)において墨をするときに使う道具なのですが、猿の形をした瀬戸美濃の焼き物です。
大きさは6-7センチの小さなもので背中に穴が開いており、猿の口からちょんちょんと水を出すような造りになっており非常にチャーミングでユーモラスな品です。
これは県内初出品になります。
水滴、文房具というところがミソです。
どういうことかというと、小牧城の主郭はどのような建物が建っていて、どのような機能を持っていたかはまだまだこれから検討の余地がある段階です。ただ、文房具が出たということは、少なくとも文字を記すような身分または立場の人が、小牧山城の主郭あたりに少なくとも存在していたことがこの猿型水滴からうかがえるのです。
お歯黒で化粧をしていたのは誰? 濃姫?それとも信長?
もう1つの注目の一品が、「鉄釉耳付水注転用鉄漿壺(てつゆうみみつきすいちゅうてんようかねざら)」です。
とても長い名前ですが、簡単にいうと耳が付いた小さな水差しです。
これが「かねざら」として転用されている。
鉄漿(かね)というのはお歯黒のことです。
鉄漿(かね)の鉄の液体を皿にためておいて歯に塗っていく、そのカネミズ=鉄漿の液体を貯めるものに水注が転用されているのです。
発掘された時には、カネミズが固形化して中にゴロンと入ったまま出土しましたが、それから今に至るまで、カネミズが固まった状態で残っています。
これがなぜ興味深いかというと、ようするにお化粧をしていたということが分かります。
お歯黒(鉄漿)といえば絵などで黒い歯をした女性を思い浮かべ、女性用と思うかもしれません。
ところが、今川義元がお歯黒姿で描かれるように、この時点ではまだ男性もお歯黒をしていた可能性もあるので、男女どちらのためのお化粧品なのかはまだ分かりません。
ともかく、身だしなみに関する痕跡が小牧山城で出てきたことを考えますと、
小牧山城が単なる出城や砦といった、美濃攻めのために一時的な軍事施設ととらえるのではなく、文字を書いたり、お化粧をしたりと、優雅というとおかしいかもしれませんが、それなりの身分の人がそれなりの格式をもって活動したことが伺える。そういう点で、大変に興味深い資料かと思っています。
*小野さんにはさらに小牧山城の発掘の成果と現状について、寄稿していただきました。
参考・小牧山城【お城観光ガイド】信長が初めてゼロから造った城
次は【58】政秀寺古記 岐阜という名前は信長の発明ではなかった!へ
信長の住んだ小牧山城はどんな姿?
前のページでも紹介した、2014年の読売新聞の「図解 信長の城」の(4)でも小牧山城が取り上げられています。富永商太さん(千田先生監修)の復元イラストとともに一部引用します。
「城」と聞いて石垣と天主(天守閣)を頭に浮かべる人が多いだろう。その始まりの城といえば、かつては信長最後の居城・安土城(滋賀県)とされてきた。だが、城郭考古学者の千田嘉博・奈良大学長(51)(肩書、年齢は掲載時)は「2011年に小牧山城の山頂(主郭)付近で衝撃的な発見があったのです」と話す。
愛知県小牧市の小牧山の山頂では、以前から大きな石が複数露出していたが、信長の死後の小牧・長久手の戦い(1584年)で徳川家康が陣を置いた際の跡だろうと考えられてきた。
ところが、市教委が石垣の一部をほぼ完全な形で発掘したことで、信長が小牧山城を造った1563年頃のものだったことが判明したのだ。石垣の高さは最大で4メートルほど。自然石に近い形状の石を使った「野面(のづら)積み」という初期の築城技術だったため、まだ高い石垣を造れず、上下2段の構成になっていた。
「信長にとって最初の石垣ですが、非常にいい仕事をしています。当時の最先端の城を築こうと、優秀な職人をスカウトしてきたのでしょう。この発見で小牧山が臨時の砦ではなく、本気で腰を据えた居城であることが確実になりました」と千田さんは説明する。
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第1章 天下布武への道
三・小牧山城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第二室)
展示番号 57番