7/15~9/10開催の企画展「天下人の城」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について徹底リポート!

「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜

展示紹介

【55】【56】小牧新町遺跡など出土品 信長が小牧山の麓に創ったニュータウン「城下町」

更新日:

【55】小牧新町遺跡出土品 【56】小牧上御園遺跡出土品 小牧市教育委員会蔵

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道
三・小牧山城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第二室)
展示番号55・56番
おいでよ天下人の城展
お皿の破片みたいなものがたくさんですね。
原さん
ただの破片でもどこから、どんなものが出てきたかで歴史を読み解くことができるんですよ。 まず【55】は城下町の武家屋敷エリアだった新町(しんまち)遺跡で出てきたものです。【56】は城下町の町人エリアだった上御園(かみみその)遺跡です。今回は、小牧市さんに、城下町の武家屋敷エリア、町人エリア、そして城本体の3つがわかる特徴的なものを選んでいただきました。
おいでよ天下人の城展
まずは城下町の2エリアですね。
原さん
もともとこの城は応援団会員No.1の千田嘉博先生が若き頃、地籍図を調査から「小牧山城はきちんと城下町が展開していた」と予測しました。当時は小牧山城は臨時の砦のようなものであり、城下町などあるはずがないとされていたので、非常にセンセーショナルな予測でした。
おいでよ天下人の城展
すぐには認められなかったのですね。
原さん
その時はまだ発掘調査を行っていなかったので証明できませんでした。しかし発掘調査をした結果、先生の予想のように武家屋敷街であると予想した場所からその遺構が出てきました。

地籍図で紺屋(こうや)町と言われたところからは、間口の広い大きな家であったと思われる空間が出てきて、鍛冶屋町からは鉄滓(てつさい)のようなものが出て、鍛冶屋があったことを証明するものが発掘されました。

地籍図にある地名と現代の遺構が非常につながり、遺物も発掘されている。 これは計画的な城下町であったことを証明した遺跡なのです。

おいでよ天下人の城展
トロイア遺跡を見つけたシュリーマンみたい。

小牧山城に城下町の存在がわかるまで

信長が小牧につくった城下町については、2014年の読売新聞の「図解 信長の城」(3)で取り上げられています。富永商太さん(千田先生監修)の復元イラストとともに一部引用します。

 

 わずか4年しかいなかった小牧山城は、中継ぎの城という印象が根強い。
だが、この小牧山城に、信長の天下統一構想の原点があることが近年、考古学の成果で浮かび上がっている。
「計画的に整備された城下町と『石垣の城』の原形がすでに出現していたのです」と、城郭考古学者の千田嘉博・奈良大学長(51)(*肩書、年齢は掲載時当時)は言う。

千田さんは名古屋市教委の学芸員だった20歳代の頃から、小牧山の南に碁盤目状に広がる城下町の存在を、江戸時代の地名や明治時代の地籍図などから学術論文などで指摘してきた。まだ発掘調査が行われていなかった頃だ。

1995年、小牧中学校敷地での大規模な発掘調査で武家屋敷跡が見つかり、その後、次々に城下町を示す発見が相次いだ。信長入城以前には町などはなく、信長がゼロから計画して整備した城下町が存在したことが確実となったのだ。

発掘から分かった信長の町作りは、はじめに下水を敷設するなど町全体の基礎的な機能(インフラ)を整備したうえで、城に向かって右側に武家屋敷、左側に商家や一般人の住居を配したことだ。左側には「鍛冶」という区画があるが、そこには文字通り鍛冶職人を居住させた。ほかにも「油屋」や「紺屋」(染め物)などの区画もあった。

「こうした町づくりは江戸時代の城下町のイメージです。それが20~30年も先取りした形で小牧の地中から現れたのですから、想定していたとはいえその存在には驚きました」と千田さんは振り返る。まるで新しい鉄道駅を中心に広がるニュータウン開発のようだ。

信長が創ったニュータウン小牧山城下町(富永商太・絵、千田嘉博・監修)

この連載で

千田先生
信長が目指すところは明確。お城を頂点にした町づくりです

と千田さんが説明しています。

おいでよ天下人の城展
これまで出てきた勝幡、那古野、清須城とは大きな違いが現れてきたのが小牧山城だったのですね。まさに天下人の城が生まれた瞬間です。

戦国時代でなくなったはずの城下町が

原さん
今回、ちょっと面白いのは、【56】上御園遺跡出土品の志野焼き破片です。

この志野丸絵皿、志野鉄絵皿は江戸時代、17世紀にかかる時代の物なんです。なんだかおかしいと思いませんか?

おいでよ天下人の城展
戦国時代の城下町なのに江戸時代のもの?
原さん
そういうことです。 牧山城は4年間だけしかなかった城下町なので、本来は江戸時代の遺物が出るはずはないんですよね。 たしかに、武家屋敷エリアだった【55】新町遺跡からは、信長が岐阜に移った途端に遺物がパタッと無くなっています。 武家屋敷は城の移転とともに移転したけれども、城下町の民間エリアだけは江戸時代初めまで残っていたということがいえますね。
おいでよ天下人の城展
城下町の商人たちは、信長と一緒に引っ越す必要ないですものね。
原さん
そうなんです。城が移転しても城下町機能がごっそりなくなるわけではないんですよ。 予測の範囲では元和5年(1619)に木曽街道、上街道が現在の小牧街道といわれる東の方へ移る江戸時代初めまでは小牧城下町があったと考えられます。今回、小牧市教育委員会には町人空間と武家空間の違いを表す良い展示物を選んでいただきました。
おいでよ天下人の城展
これは夏休みの課題にぴったりの謎解きでは?!

次は【57】小牧山城主郭出土品 次々に新発見が飛び出す「信長の初めての城」

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道
三・小牧山城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第二室)
展示番号55・56番

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