【55】小牧新町遺跡出土品 【56】小牧上御園遺跡出土品 小牧市教育委員会蔵
第1章 天下布武への道
三・小牧山城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第二室)
展示番号55・56番
地籍図で紺屋(こうや)町と言われたところからは、間口の広い大きな家であったと思われる空間が出てきて、鍛冶屋町からは鉄滓(てつさい)のようなものが出て、鍛冶屋があったことを証明するものが発掘されました。
地籍図にある地名と現代の遺構が非常につながり、遺物も発掘されている。 これは計画的な城下町であったことを証明した遺跡なのです。
小牧山城に城下町の存在がわかるまで
信長が小牧につくった城下町については、2014年の読売新聞の「図解 信長の城」(3)で取り上げられています。富永商太さん(千田先生監修)の復元イラストとともに一部引用します。
わずか4年しかいなかった小牧山城は、中継ぎの城という印象が根強い。
だが、この小牧山城に、信長の天下統一構想の原点があることが近年、考古学の成果で浮かび上がっている。
「計画的に整備された城下町と『石垣の城』の原形がすでに出現していたのです」と、城郭考古学者の千田嘉博・奈良大学長(51)(*肩書、年齢は掲載時当時)は言う。千田さんは名古屋市教委の学芸員だった20歳代の頃から、小牧山の南に碁盤目状に広がる城下町の存在を、江戸時代の地名や明治時代の地籍図などから学術論文などで指摘してきた。まだ発掘調査が行われていなかった頃だ。
1995年、小牧中学校敷地での大規模な発掘調査で武家屋敷跡が見つかり、その後、次々に城下町を示す発見が相次いだ。信長入城以前には町などはなく、信長がゼロから計画して整備した城下町が存在したことが確実となったのだ。
発掘から分かった信長の町作りは、はじめに下水を敷設するなど町全体の基礎的な機能(インフラ)を整備したうえで、城に向かって右側に武家屋敷、左側に商家や一般人の住居を配したことだ。左側には「鍛冶」という区画があるが、そこには文字通り鍛冶職人を居住させた。ほかにも「油屋」や「紺屋」(染め物)などの区画もあった。
「こうした町づくりは江戸時代の城下町のイメージです。それが20~30年も先取りした形で小牧の地中から現れたのですから、想定していたとはいえその存在には驚きました」と千田さんは振り返る。まるで新しい鉄道駅を中心に広がるニュータウン開発のようだ。
この連載で
と千田さんが説明しています。
戦国時代でなくなったはずの城下町が
この志野丸絵皿、志野鉄絵皿は江戸時代、17世紀にかかる時代の物なんです。なんだかおかしいと思いませんか?
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第1章 天下布武への道
三・小牧山城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第二室)
展示番号55・56番