政秀寺古記 蓬左文庫蔵
第1章 天下布武への道
三・小牧山城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第二室)
展示番号58番
ここからは、小牧山城から4年後に移転した岐阜城関連の展示物です。
岐阜の「岐」は周の文王からとったかもしれませんが、岐蘇(木曽)川の「岐」であり、土岐氏の「岐」なんです。 この地名には土岐氏の都という意味あいもあり、土岐氏の守護所があった岐阜市皮手、加納町のちょっと南の辺りの雅称として岐山や岐阜、岐陽などと言われていました。
次は【59-61】濃州厚見郡岐阜図、濃州岐阜城之図、岐阜城図 謎が多い信長時代の岐阜城を味わうへ
信長は土岐氏復興を掲げ明智光秀を登用?
読売新聞の「探訪 東海百城」は愛知県の歴史研究者小林正信さんの研究を紹介した「美濃人の本能寺の変」<1>から引用します。
織田信長が岐阜城に入城して今年で450年。その信長を本能寺の変で討った明智光秀とは何者だったのか。今なお謎に包まれた光秀の前半生の解明に取り組んだ歴史研究家の説を聞き、光秀やその周辺にいた「美濃人」という視点から本能寺の変を再考してみた。
信長は1567年、美濃国の大名で斎藤道三の孫、龍興たつおきを倒し、稲葉山城(岐阜市)に入ると、美濃の新たな支配者として岐阜城と名前を変えた。
信長にとって、三河国の賀茂郡(愛知県豊田市)の一部を「高橋郡」に、伊勢国桑名郡(三重県桑名市)を「横郡」に改称して尾張国に編入したように、地名を変えることは重要な戦略であった。
「地名だけでなく、人物の名前も変えています」と話すのは、愛知県春日井市の歴史研究家小林正信さん(54)(*年齢・肩書は掲載時)だ。「本能寺の変の研究」で九州大の博士号をとった小林さんは、「信長が部下の名前を変える先駆けが『明智』姓の創出だったのです」と続ける。
光秀が同時代の史料で登場するのは、68年9月に信長が15代将軍足利義昭を奉じて上洛(京都にあがること)して以降のこと。光秀は信長の家臣とされているが、当初は足利幕府の幕臣だったとみられる。小林さんは、義昭の兄で13代将軍の足利義輝に仕えていた幕臣のリストを調べた。その結果、義輝の代に存在したが義昭の代には消えた幕臣の中に、光秀の改名前の人物と考えられる「進士藤延(しんしふじのぶ)」という人物が浮かんだ。
藤延の父晴舎(はるいえ)は、娘が義輝の側室として寵愛ちょうあいされたこともあり義輝の重臣となった。65年に義輝が暗殺された事件で父は切腹。藤延と義輝の子を懐妊していた娘も死亡したと宣教師のルイス・フロイスは書き残しているが、小林さんは、2人は共に逃げ延びたとみる。
では、進士と明智がどうつながるのか。実は、光秀の母が、美濃国守護大名・土岐(とき)氏の一族で、ナンバー2の明智氏出身だったのだ。
ただ、当時は明智氏の内紛で、妻木城(岐阜県土岐市)を拠点とする「妻木氏」と奥三河へ逃亡した「菅沼氏」に分かれ、母の家は領地のある妻木を名乗ったため「明智姓」は空白となっていた。
ここに、新たな美濃の支配者の信長が登場した。
信長は敵国だった美濃を支配する正統性を主張するために、使われていない美濃の名族の姓を利用し、進士藤延を「明智光秀」に改名させたというわけだ。小林さんは「基盤のない京都周辺を統治したい信長にとって、幕府の官僚機構に精通した藤延(光秀)は願ってもない人材でした」と解説する。
もっとも光秀自身に武力の基盤はないに等しい。そこで美濃の名門の「母」の人脈を受け継いだ。のちに本能寺の変で重要な役割を果たす西美濃を拠点とする斎藤利三としみつらの美濃武士を取り込むことで、信長軍で1、2位を争う勢力にまでなった。
信長は75年の長篠の戦いで武田軍を破り、東の脅威をなくすと、その直後に、光秀を惟任これとうに改姓させた。惟任は、島津や大友に並ぶ九州の名門の姓だ。
信長の視線は今や美濃国内から、西日本に向いていた。翌年から信長は安土城(滋賀県)の築城を始め、岐阜城を離れる。光秀と信長の蜜月関係に陰りが表れるのもこの頃からだった。
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第1章 天下布武への道
三・小牧山城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第二室)
展示番号58番