7/15~9/10開催の企画展「天下人の城」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について徹底リポート!

「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜

展示紹介

【58】政秀寺古記 岐阜という名前は信長の発明ではなかった!

更新日:

政秀寺古記 蓬左文庫蔵

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道
三・小牧山城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第二室)
展示番号58番

ここからは、小牧山城から4年後に移転した岐阜城関連の展示物です。

おいでよ天下人の城展
岐阜という名前は織田信長が命名したんですよね!
原さん
おい天ちゃん、残念ながら違うんですよ。 たしかに岐阜という命名をしたのは、信長であり、政秀寺の開山である澤彦宗恩(たくげんそうおん)といわれています。それは澤彦が「周ノ文王岐山(ぎざん)二起リ天下ヲ定ル」と信長に進言したから、「岐阜」と定められたと『創業録』に書いてあるので、永禄10年に信長が初めて「岐阜」という名前を考え付いたように見えるんです。
おいでよ天下人の城展
何が違うんですか?
原さん
実は岐阜の瑞龍寺(ずいりょうじ)に「土岐重頼画像」の賛には、100年前の明応8年(1499年)の段階で「岐阜」と書いてありました。
岐阜の「岐」は周の文王からとったかもしれませんが、岐蘇(木曽)川の「岐」であり、土岐氏の「岐」なんです。 この地名には土岐氏の都という意味あいもあり、土岐氏の守護所があった岐阜市皮手、加納町のちょっと南の辺りの雅称として岐山や岐阜、岐陽などと言われていました。
おいでよ天下人の城展
そうなんですか!岐阜という地名は土岐氏の時代から使われていたんですね。
原さん
実は最近でも中学校の名前などで残っているんですよ。信長が岐阜と考えたのではなく、公称でなかった地名を公称にし、今の岐阜県という名前につながったと解釈するのが適当だと思います。「岐阜」は澤彦、信長の発明ではありません。
おいでよ天下人の城展
岐阜=土岐氏の都というのは、斎藤道三に追い出されてしまった土岐氏の都を信長が作る? 天下布武という印を使い始めたのは岐阜ですよね。
原さん
斎藤氏が追い出した土岐氏をもう一度迎えて、土岐の都にするという意味を持たせて、地元の豪族を抑える意図があったのではないかという説もあります。ちなみに、澤彦はその時に「天下布武」の印についても、四字は不吉ではないかといぶかる信長に、「四字を嫌うのは日本のみの因習で、明王朝ではむしろ縁起がいい」と言上しています。信長はそれを聞いて大変喜び、早速、印を作らせたそうです。
おいでよ天下人の城展
信長は澤彦のアドバイスをほとんど採用しているんですね。 ところで岐阜県は、漢字で書けない県名第1位(gooランキング「漢字で書けるか自信がない都道府県ランキング」)。 岐阜の「ふ」がすっごく難しいです。
原さん
・・・我々にとっては普通なんですけどね。(原さんは岐阜県出身)

次は【59-61】濃州厚見郡岐阜図、濃州岐阜城之図、岐阜城図 謎が多い信長時代の岐阜城を味わう

信長は土岐氏復興を掲げ明智光秀を登用?

読売新聞の「探訪 東海百城」は愛知県の歴史研究者小林正信さんの研究を紹介した「美濃人の本能寺の変」<1>から引用します。

 

 織田信長が岐阜城に入城して今年で450年。その信長を本能寺の変で討った明智光秀とは何者だったのか。今なお謎に包まれた光秀の前半生の解明に取り組んだ歴史研究家の説を聞き、光秀やその周辺にいた「美濃人」という視点から本能寺の変を再考してみた。

信長は1567年、美濃国の大名で斎藤道三の孫、龍興たつおきを倒し、稲葉山城(岐阜市)に入ると、美濃の新たな支配者として岐阜城と名前を変えた。

信長にとって、三河国の賀茂郡(愛知県豊田市)の一部を「高橋郡」に、伊勢国桑名郡(三重県桑名市)を「横郡」に改称して尾張国に編入したように、地名を変えることは重要な戦略であった。

「地名だけでなく、人物の名前も変えています」と話すのは、愛知県春日井市の歴史研究家小林正信さん(54)(*年齢・肩書は掲載時)だ。「本能寺の変の研究」で九州大の博士号をとった小林さんは、「信長が部下の名前を変える先駆けが『明智』姓の創出だったのです」と続ける。

光秀が同時代の史料で登場するのは、68年9月に信長が15代将軍足利義昭を奉じて上洛(京都にあがること)して以降のこと。光秀は信長の家臣とされているが、当初は足利幕府の幕臣だったとみられる。小林さんは、義昭の兄で13代将軍の足利義輝に仕えていた幕臣のリストを調べた。その結果、義輝の代に存在したが義昭の代には消えた幕臣の中に、光秀の改名前の人物と考えられる「進士藤延(しんしふじのぶ)」という人物が浮かんだ。

藤延の父晴舎(はるいえ)は、娘が義輝の側室として寵愛ちょうあいされたこともあり義輝の重臣となった。65年に義輝が暗殺された事件で父は切腹。藤延と義輝の子を懐妊していた娘も死亡したと宣教師のルイス・フロイスは書き残しているが、小林さんは、2人は共に逃げ延びたとみる。

では、進士と明智がどうつながるのか。実は、光秀の母が、美濃国守護大名・土岐(とき)氏の一族で、ナンバー2の明智氏出身だったのだ。

ただ、当時は明智氏の内紛で、妻木城(岐阜県土岐市)を拠点とする「妻木氏」と奥三河へ逃亡した「菅沼氏」に分かれ、母の家は領地のある妻木を名乗ったため「明智姓」は空白となっていた。

ここに、新たな美濃の支配者の信長が登場した。

信長は敵国だった美濃を支配する正統性を主張するために、使われていない美濃の名族の姓を利用し、進士藤延を「明智光秀」に改名させたというわけだ。小林さんは「基盤のない京都周辺を統治したい信長にとって、幕府の官僚機構に精通した藤延(光秀)は願ってもない人材でした」と解説する。

もっとも光秀自身に武力の基盤はないに等しい。そこで美濃の名門の「母」の人脈を受け継いだ。のちに本能寺の変で重要な役割を果たす西美濃を拠点とする斎藤利三としみつらの美濃武士を取り込むことで、信長軍で1、2位を争う勢力にまでなった。

信長は75年の長篠の戦いで武田軍を破り、東の脅威をなくすと、その直後に、光秀を惟任これとうに改姓させた。惟任は、島津や大友に並ぶ九州の名門の姓だ。

信長の視線は今や美濃国内から、西日本に向いていた。翌年から信長は安土城(滋賀県)の築城を始め、岐阜城を離れる。光秀と信長の蜜月関係に陰りが表れるのもこの頃からだった。

次は【59-61】濃州厚見郡岐阜図、濃州岐阜城之図、岐阜城図 謎が多い信長時代の岐阜城を味わう

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