羽柴秀吉書状 岡本太郎右衛門・木下平大夫宛 個人蔵
第2章 巨大城郭の時代 四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(二)大坂城
展示番号99
家臣の岡本太郎右衛門(良勝)・木下平太夫に宛てた天正十一年(1583)五月十三日付の書状です。
この戦いで勝利した秀吉に多くの織田氏の旧臣らが臣従、そして諸国の大名からも親交を持ちたいとアプローチが来るようになる。賤ヶ岳の戦いが、秀吉の権力掌握の追い風となった。
秀吉は天下人への自信を深めたのか、この年、天正10年(1582年)から大坂の本願寺跡に大坂城の築城を始める。
この書状の内容は?
敵軍が桑名表まで到達し、その人数は4、5千人に及んでいるとのことです。万一、出陣せねばならなくなることもあるでしょう。どこに攻撃を仕掛けるかはよく考え、家中の者たちに気を配って、油断がないようにしてください。以上をあなた方お二人に伝達します。詳しいことは使者に申し含めておきます。
5月13日 秀吉(花押)
岡本太郎右衛門殿
木下平太夫殿
戦での緊迫した様子、秀吉の戦略、家臣に対する気遣いが見れる書状です。使者に申し含めておきます・・というところに 秀吉の書状に書けないドラマが生まれます。(訳は応援団の藤麿呂さん)
次は【100】長久手合戦図屏風(後期)勝ってないのに「神君家康さま劇的勝利!」となった戦い
岡本良勝が創業した会社が今でも岐阜市に!
ところでこの書状を受け取った、豊臣家の家臣・岡本太郎右衛門(岡本良勝)とはどんな人だったのでしょう。
天正10年(1582年)信孝が挙兵し、賤ヶ岳の戦いが始まります。しかしすぐに秀吉に攻められ、信孝は降伏することになります。降伏とともに信孝の母らが人質にとられてしまいますが、そのタイミングで、北伊勢の峯城主(三重県亀山市)だった岡本良勝は信孝の元を去り、秀吉の家臣になったんです。
それはさておき。
実は岡本良勝が創業した会社が今でも続いているというのはご存知でしたか?
その会社は岐阜市にある鋳物・精密治具メーカーの株式会社ナベヤ。
岡本良勝が永禄3年(1560年)創業したとされ、商標を持つ日本の金属系製造業としては最古なのだそう。
ウィキペディアより、引用します。
茶釜は千利休へも納められていた。岡本家当主岡本太右衛門は、1749年(寛延2年)に朝廷より御鋳物師免状を授かり、京都御所へ灯篭を献上し「鍋屋」の称号を与えられ、代々鍋、釜、梵鐘等を鋳造してきた。柴又帝釈天、成田山など、全国各地の多くの寺院の梵鐘が同社製造によるものである。
錚々たる寺の梵鐘等などを作ってきたようです。
戦国武将としての寿命はそこまでではなかったかもしれませんが、事業で現代まで名を残せた武将は彼くらいなのではないでしょうか。
書状訳:藤麿呂
筆者:北村美桂@カツイエ.com
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第2章 巨大城郭の時代 2 大坂城(本館7室1)
展示番号 99番