大野城図(修築普請届図控) 名古屋市蓬左文庫蔵 前期(8/15まで)
第2章 巨大城郭の時代 四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(六)家康の城
展示番号156
┌(;・_・)┘トコトコ(徳川美術館と蓬左文庫は棟続きです)
大野城は、信長に仕えた金森長近が建てました。この当時の本丸郭(くるわ)の建造物が描かれているのが、重要です。安永四年(1775)に焼失する以前の姿を留めている貴重な図面なのです。
次は【157】越前福井城図(「極秘諸国城図」四十)天守が焼失する前に書かれた福井城です。
信長の城=俺イズムの城を継承した金森長近とは
信長に倣い最新鋭の城<築城名人 金森長近1>
石垣と天守がある「城」の原点は織田信長の安土城だ。これが進化して、江戸時代に一般的となる完成形の一つが徳川家康の造った名古屋城である。城の発展の歴史は天下統一の歩みと重なる。もしも天下人が明智光秀や信長の次男、織田信雄のぶかつだったら……。現代人がイメージする城の形もまた違うものになっていたかもしれない。
そうした「歴史のもしも」を想像できるのが金森長近かなもりながちか(1524~1608年)だ。長近を築城名人として挙げる千田嘉博・奈良大教授(城郭考古学)は「城造りで、信長の安土城の特徴を個性豊かに取り入れている」と評する。
長近は、飛騨の高山城(岐阜県高山市)を築いた高山藩祖として知られている。18歳で10歳年下の信長に仕え、親衛隊「母衣(ほろ)衆」となり、信長から「長」の字をもらい、「可近(ありちか)」から改名した。
1572年に信長の臣下8人が連署した文書の中に、82年の清須会議に出る木下(豊臣)秀吉や丹羽長秀などとともに長近の名前があり、信長の有力な家臣であったことがわかる。
長近が初めて城持ち大名となったのは75年。2年前に信長は越前(福井県)の朝倉氏を滅ぼすが、その後、現地の一向宗が一揆を起こし信長勢は一掃される。一向宗から越前を奪還するために長近は75年、八幡城(岐阜県郡上市)の城主、遠藤慶隆よしたからとともに、美濃から越前の大野郡(福井県大野市など)に侵攻。そのまま郡の3分の2を領有し、翌76年から4年かけて、盆地内の丘陵に大野城を新造した。くしくも信長が安土城を造り始めた年と同じである。
大野城と安土城には共通点も多い。現在も残る石垣からは、信長が最初に造った小牧山城(愛知県小牧市)でも見られる地下から主要な建物に入る穴蔵式の入り口や、安土城にあった可能性がある「懸け造りのテラスのような跡」(千田さん)が見られる。「注目すべきは、後の時代の整然とした建物配置ではなく、安土城の本丸でも見られるように、天守と周囲の櫓やぐらが折り重なるように複雑に接続されている所」と千田さんは言う。
年下のカリスマ・信長に倣って、領民たちが見たことのない最新鋭の「城」によって支配しようという、50歳代の新城主の意気込みが伝わってくるようだ。(略)
どうして城を自由に修理できず、幕府の許可が必要だったのか?
大坂夏の陣後、まず徳川家康が慶長二十年/元和元年(1615)閏6月、諸大名に対して、
本城(居城)以外のすべての城の破却を命じました。(特に西国大名に対しては厳重に施行)
同じ年の7月に発布された武家諸法度(元和令)により新規築城の厳しい禁止、城郭の補修も幕府へ届けさせられることとなる。
諸大名の軍事力をできるだけ削り、各大名が臨戦的な軍事体制を維持することを否定する狙いもあり、徳川家による支配を盤石にするのが大きな目的とされている。
このころ、将軍は徳川秀忠が2代目を継いでいたものの、まだ徳川家による支配は強固ではなく、諸大名を統制する必要があった。
実際、広島城の無断修築をきっかけに福島正則が元和4年(1618)に改易されたという事例がある。
まとめ:hokuto
次は【157】越前福井城図(「極秘諸国城図」四十)天守が焼失する前に書かれた福井城です。
第2章 巨大城郭の時代 四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(六)家康の城
展示番号156