7/15~9/10開催の企画展「天下人の城」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について徹底リポート!

「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜

展示紹介

【31】 織田信長画像(模本)信長の時代が幕を開ける!

更新日:

織田信長画像模本【おだのぶなががぞうもほん】 徳川美術館蔵(原本・豊田市の長興寺)

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道 清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)
展示番号 31番
原さん
ここで第2の部屋に移ります。テーマは清須城と桶狭間合戦です。
おいでよ天下人の城展
であってではないのですね。
原さん
はい、まず今ある清城と信長の時代の清城は違うものであることを前提にして頂きたい。五条川の西の岸に天守台跡といわれる高台があって、それがかつての城の中心部でした。川を渡った反対側には模擬天守がありますが、対岸の城跡の部分として関連はありません。元々の計画では、残っていた高台の土段の上に模擬天守を建てる予定でしたが、せっかく残っている貴重な遺構を潰すことになるという意見が出たため、市が妥協して対岸に建てることになったのです。
おいでよ天下人の城展
それが現在の「清州城」なんですね。では、あれはまったくの…
原さん
模擬天守はどう見ても犬山城・・・なんであんな形になってしまったのかとは思いますが、実は信長の頃の当初の中心部は今の模擬天守側にあったと言われているのです。
おいでよ天下人の城展
えっ?どういうことでしょうか。こういうことですかね。

・織田信長時代 東岸(模擬天守側)に守護所

・織田信雄(信長の次男)時代(豊臣政権期) 西側の高台が天守か

・昭和時代 東岸に犬山城風の模擬天守が新築される

原さん
当初の中心部の周りは那古野城のように重臣たちの館も集合した形式の城でした。発掘調査や河川の道筋の変化から信長が入った当時は東岸が中心だったと考えられています。
おいでよ天下人の城展
さて、有名な信長画像ですね。
原さん
12番でも出てきた桜井清香(さくらいせいこう)が昭和に模写した長興寺所蔵の信長像です。
おいでよ天下人の城展
徳川美術館の学芸員でもある日本画家ですね。
原さん
元の絵は本能寺の変の直後、天正十一年(1583)に、信長家臣だった与語正勝が狩野宗秀に描かせた肖像画。没後すぐに作られたことから信長の風貌をよく伝えているのではないかと言われています。筆法など絵そのものの技巧は置いておいて、ルイス・フロイスの記録にある信長の風貌について紹介します。信長は長身で痩(や)せており、髭(ひげ)は少なく甲高い声であったといいます。また、性格は決断力に富み、判断力に優れている反面、遠回しな言い方を嫌い、部下の進言は聞かず、他の大名を軽視していたと記しています。多分に主観は入っていますが、信長の一面は伝えているのでしょう。
おいでよ天下人の城展
この絵のイメージとはぴったりあいますね。

次は【32】春日井郡清須古城之図 遺跡となった織田信雄(信長の次男)の清須城

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道 清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)
展示番号 31番

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