【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道
二・清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)展示番号 39番
第1章 天下布武への道
二・清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)展示番号 39番
おいでよ天下人の城展
今川方の城として、これまで鳴海城と沓掛城がでてきました。
原さん
大高城は鳴海城と同じく、信長によって包囲された城です。そのため城の兵糧が絶えかけ、当時、松平元康と名乗っていた徳川家康が兵糧入れを敢行しました。
おいでよ天下人の城展
家康も桶狭間の戦いに参戦していたんですね。
原さん
戦の手柄はいくつかあり、敵の首をとるのもそうであるが、敵に包囲された城に兵糧を入れるのはとても困難なことであり、たいへんな大手柄であった。敵の囲みを突破した大高兵糧入れは家康の逸話として代々語り継がれている。今の感覚からすると、たかが米を運ぶだけで手柄とはなぜだろうと思うかもしれないが、周りを包囲されているところを突破して城に兵糧を入れることは非常に意味を持つので、この大高城は家康にとって重要な城、
おいでよ天下人の城展
つまり自身の出世、戦功に関わった大切な城ということですね。
原さん
今でも国の史跡として残っているのは、江戸時代を通じて尾張藩が家康公のゆかりの地として大切に保管していたからです。尾張藩は名古屋城の留守居役であった重臣の志水家にここに屋敷を与えたが、志水氏ははばかって当時の主郭(本丸部分)には住まなかったのです。三の丸部分に住み、かつて城の主要部分には手を付けず残してきたのです。桶狭間以降に使われた部分では手が入ってしまっていますが、江戸時代初期の形態が現在まで遺されているので貴重な遺跡です。
おいでよ天下人の城展
一方の鳴海城は家康と無関係だったために同じ今川の城でも、国の史跡にならなかったのですね。(現在は公園となり遺構はほぼ残っていない)
次はいよいよ信長側の付け城戦略!
次は【40】尾州知多郡鷲巣丸根古城図 信長のターンが始まる!鷲津砦・丸根砦
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第1章 天下布武への道
二・清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)展示番号 39番
第1章 天下布武への道
二・清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)展示番号 39番