7/15~9/10開催の企画展「天下人の城」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について徹底リポート!

「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜

展示紹介

【38】愛知郡沓掛村古城絵図 今川義元が前泊した沓掛城

更新日:

愛知郡沓掛村古城絵図 蓬左文庫蔵

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道
二・清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)展示番号 38番
原さん
 沓掛(くつかけ)村にあった城です。現在は豊明市で、綺麗な公園として整備され、本丸、空堀、曲輪などの遺構が残っています。城は東西三百メートル・南北二百三十メートルの非常に大きな城です
おいでよ天下人の城展
堀がきれいに残っていますよね。整備前にはもっと高い土塁がめぐっていたようですが。
原さん
今川義元が桶狭間の合戦の前日までいた城です。義元は五月十七日にここに入り、翌日出陣し、十九日に桶狭間に布陣していたところを信長に討たれています。沓掛城主の近藤景春は、もともと織田方でしたが、鳴海城主の山口親子が裏切ったのと合わせて寝返りました。
おいでよ天下人の城展
沓掛城は、鳴海城と今川領の三河の間にありますから、オセロならはさまれてひっくり返るのも仕方がない気がしますけど。

沓掛城は読売新聞の東海百城に選ばれています。以下、一部引用します。

14世紀頃に近藤氏が築城したと伝わる。桶狭間の戦いでは、近藤氏最後の城主で9代目の景春かげはるが今川氏に属し、大高城方面へ出発する前線基地となった。

景春は敗戦後も単身、城に残り、信長に攻められ2日後に城外で戦死した。その後、信長の家臣の簗田政綱、信長の弟の信照、織田家に仕えた川口久助が城主となったが、川口は関ヶ原の戦いで敗れた西軍につき廃城となった。

桶狭間で敗走する家康も立ち寄ったとみられ、40年後に家康が諸国を流浪した景春の孫と対面した際、「お前の祖父は城を守り忠節を尽くした。徳川にとって譜代と同様だ」と近藤氏を旗本に取り立てた。

江戸時代の絵図や発掘調査などによると、本丸と馬出しを持つ二の丸、三重の堀などがあり、東西約325メートル、南北約265メートル、全周約1000メートル(推定)の本格的な城郭だった。馬出しや総構えなどから桶狭間後に改修されたとみられる。1989年に沓掛城址公園として整備された。

次は【39】知多郡大高村古城絵図 家康が補給作戦に成功した出世の城「大高城」

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道
二・清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)展示番号 38番

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