松井宗信木像 名古屋・長福寺
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道 清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)
展示番号 37番
第1章 天下布武への道 清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)
展示番号 37番
桶狭間で今川義元と共に討たれた松井宗信の供養像。36の今川義元木像と同じ長福寺に安置されている。
おいでよ天下人の城展
原さんが長福寺にごあいさつにいったときに、義元像と松井宗信像をお借りするにあたり面白いエピソードがあったのですが、作品と関係ないために残念ながら省略させていただきます。
原さん
。。。
おいでよ天下人の城展
松井宗信については、応援団である武将ジャパンに非常に詳しい記事が載っていますので引用します。
・『井伊谷七人衆』 おんな城主直虎ゆかりの地を歩く~直虎紀行 伍の巻
松井宗能─貞宗─信薫(兄)─宗信(弟)─宗恒
松井山城守宗能は、堤城(静岡県菊川市下平川字堤)を築いて住み、松井山城守貞宗(「八郎」「兵庫助」とも)に跡を譲った。
貞宗の長男の松井左衛門亮信薫は、今川氏の命で永正11年(1514)、米倉城に移った二俣氏に代わり二俣城主(笹岡城主)になり、堤城は廃城となった。その信薫が病死すると、弟の松井左衛門佐宗信(「郷八郎」「強八郎」「五郎八郎」とも)が継ぎ、新たに蜷原城を築いて笹岡城を居館としている。
この松井宗信は、今川義元の武将として三河国各地で歴戦したが、永禄3年(1560)の「桶狭間の戦い」で討死。宗信の長男・松井山城守宗恒(「八郎」とも)が跡を継ぐも、今川氏から徳川氏に寝返った引馬城主・飯尾連龍と姻戚関係にあったので、今川氏真に駿府へ呼び出されて謀殺されたという。
おいでよ天下人の城展
松井氏は悲劇の一族だったのですね。
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道 清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)
展示番号 37番
第1章 天下布武への道 清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)
展示番号 37番