7/15~9/10開催の企画展「天下人の城」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について徹底リポート!

「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜

展示紹介

【1】色々威大鎧 織田家ゆかりの尾張地方最古のよろいかぶと!

更新日:

色々威大鎧(いろいろおどしおおよろい)

*この展示解説は、事前に6時間かけて行われた担当学芸員の原史彦さんの説明をもとに、構成したものです。細心の注意を払っていますが、誤字脱字などがありましたらコメントからお寄せください。

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第一章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
展示番号 1番

担当学芸員・原史彦さん(小久ヒロ・絵)

伝承では、平安時代末の源平合戦で平景清が使ったとされる鎧ですが、実際の年代は形式から南北朝時代とみられます。
惜しいことに、愛知県内最古ではないのですが、尾張地方では最古級です。(県内最古は三河地方の豊田市の猿投=さなげ神社の重要文化財「樫鳥糸威鎧」)

さて、この鎧がなぜ天下人の城の1番目を飾るのか。
実は、織田家とふかーい関係があるからです。

織田家より所蔵する明眼院(大治町=名古屋市の西隣、清須市の南隣)に奉納されたという地元の古老の伝承あるのです。
もちろん、伝承なので確かめることは出来ませんが、大治町周辺は、尾張下四郡の守護代、織田大和守の支配地域であったと考えられ、明眼院もそこそこ格のある寺院であることから織田家より大鎧が奉納されても不思議ではないのです。

ここで言う、大和守(やまとのかみ)織田氏とは、下の図(富永商太さん作成、読売新聞「探訪 東海百城」より)にあるように、信長のお父さんである織田信秀が仕えた、本来の織田本家です。清須城(清須市)が本拠でした。

(絵・富永商太)

読売新聞「探訪 東海百城」信長育てた尾張の「喫茶文化」 信長の父<1>より

つまり、信長が天下布武への道を歩むには、本家の大和守織田家を乗り越えないといけないところから、この展覧会は始まるわけです。

この織田家ゆかりの品は、尾張地域では最古級に入る珍しい品であり、大治町にとっても宝物です。ただ、町内には収蔵、展示施設がないため、徳川美術館が管理しています。

ところで、冒頭に出てきた平景清とはなにものでしょうか?

この人物、のちにも「伝・景清」として出てきます。

国史大辞典から引用します。

平安時代から鎌倉時代初期にかけての武将。父は上総介藤原忠清。本姓は藤原であるが、俗に平景清といわれる。おじ大日坊能忍を殺害し「悪七兵衛」と呼ばれた。伊勢・志摩出身の在地武士と思われる。治承四年(一一八〇)富士川に出陣した父忠清が、源頼朝の強勢を理由に、景清を信濃守に任じて追討使とするよう平宗盛に申し入れたが、実現せずに終った。寿永二年(一一八三)四月には、北陸の木曾義仲追討のため父忠清・兄忠光とともに侍大将として出陣したが、大敗を喫した。同年七月平氏一門に従って西走し、一谷・屋島・壇ノ浦と奮戦。水練の者と伝えられ、平家一門入水の中で壇ノ浦から逃れた。その後のことは諸説あり、一説には幕府方に降って和田義盛ついで八田知家に預けられ、のち出家して常陸国に居たが、七日間の断食ののち東大寺供養の建久六年(一一九五)三月十二日に没したとも、また伊賀に赴いて平知盛の子知忠を擁し建久七年七月に挙兵したが敗れて逃走したともいわれる。浄瑠璃『出世景清』などの題材となっている。

生年没年は不明。藤原だったけれども、平家についたために「平」と呼ばれるようになってしまったようです。
経歴を見ると、平家方(もともとは政府軍)のトップクラスの武将で、しかも、壇ノ浦で海に飛び込んで、あの激流の中を泳ぎきって逃げ延びたというかなりの強者です。
伊勢・志摩つまり三重県の英雄です。

次は【2】足利義持判物(御教書)

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第一章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
展示番号 1番

さらに知りたい!大鎧はなにでできているかの秘密大公開

おいでよ天下人の城展
徳川美術館「天下人の城」展では、刀剣が注目されていますが、甲冑も面白い!
応援団メンバーで、なんと紙などをつかい手作りで甲冑も作っている「ぅにょん」さんに出展番号【1】色々威大鎧の見方を教えてもらいました。

尾張地域の最古級の鎧らしいのだけど、これより古い鎧が熱田神宮に無いというのが意外。
刀剣はあんなにあるのに。

大鎧は平安後期から室町前期頃まで使われた甲冑!
実戦で使われなくなってからも武士の格式を示すものとして大切にされたよ。
大鎧は「小札」(こざね)と呼ばれる小さな板をつなぎ合わせてできているよ!

まず目に付くのが、上品な色合いの大袖と草摺…に対し汚、いや古色蒼然とした胴。
バランスの悪さが異様な雰囲気~
綺麗な部分は(もとは紅色威だった可能性がある)江戸時代の魔改造だそうな。

胴の部分は、傷みが激しく小札(こざね)板にかろうじて威糸が張り付いている感じ。
小札の穴まで見える部分もあって、中身丸出し状態(///pωq///)
よく展示したな…

通常は威(おどし)糸で隠れて見えない、小札が並んだ様子が見えるので
「大鎧は、小さな札をずらしながら横・縦につなげて出来てるんだよ!」
というのがよく分る、いわば大鎧の骨格標本のような面白い展示品です。

目にする機会は、あまりないと思うので
じっくり、ねっとり見ることをオススメ致します。

大鎧の小札(こざね)(ぅにょん絵)

小札がわかんない!」という方は、お隣の展示室(蓬左文庫1室西側)
「33 清州城下町遺跡出土武具」に小札の展示もあるよ~!

【33】清洲城下町遺跡出土品 信長が城下で造らせた画期的な武具?

本小札に三目札。

尾張地方には、大鎧があまり残っていないのに、清洲からはこんなの出るのね。
面白いなぁ。

(ぅにょん)

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