木下秀吉等連署状 佐々平太・兼松又四郎(正吉)宛 (永禄十一年)六月十日 名古屋市秀吉清正記念館蔵
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道
三・小牧城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第二室)
展示番号62番
第1章 天下布武への道
三・小牧城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第二室)
展示番号62番
原さん
美濃国の河野島(岐阜県各務原市川島町)のうち30貫文の土地を佐々氏と兼松氏に与えることを証した文書です。この土地の元の所有者である伏屋氏と一色(いっしき)氏は美濃斎藤氏の家臣と考えられ、信長の美濃攻略によって斎藤氏側の土地が論功行賞として分配されたことを示しています。
おいでよ天下人の城展
新たな美濃の支配者となった信長が領地を再分配したのですね。それにしても秀吉の名前が気になります。
原さん
木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、丹羽長秀・村井貞勝らと共に奉行人として文書の発給に携わっていたのです。秀吉の書状は永禄八年・九年の書状が2点ありますが、いずれも写しで、これが本文書が現存する最古の秀吉文書です。
信長から草履をもらった武士
おいでよ天下人の城展
秀吉や丹羽長秀などは有名な武将だけど、土地をもらった佐々平太と兼松又四郎(正吉)っていう信長の家臣はどんな人だったんだろう
にのさん
佐々平太は信長の馬回りとも言われているけど詳しい事は分らない信長の家臣だね。 一説によると佐々成政の養子になった後、最終的に加藤清正に仕えたとも言われているね。
おいでよ天下人の城展
あっ、城郭勉強家のにのさん、ありがと!佐々と清正はいずれも熊本城主になった人たちですね。
にのさん
兼松又四郎(正吉)(1542−1627)関してはエピソードが残ってるよ
天正元年(1573)に8月に信長が朝倉軍追撃のために繰り広げられた利根山の戦いで兼松又四郎(正吉)が敵の討ち取った首を信長の前に持参した。
その時に血の滲んだ素足を見て、信長が普段腰に下げている足半【あしなか】(かかとの部分のない小さな草鞋)をあげたという。
おいでよ天下人の城展
これがその足半(あしなか)?見た目は単なる草履ですね。
にのさん
この足半は以後兼松家の家宝となって、又四郎の孫で兼松正親がその姿肖像画に描かせたのは後世にも伝わる話だよ。
足半には付箋も付けて有ってその時に信長さまに頂いたって事も書いてあるよ。
足半には付箋も付けて有ってその時に信長さまに頂いたって事も書いてあるよ。
おいでよ天下人の城展
肖像画もあるんですね。兼松又四郎はかなり優秀な家臣だったのですね。
にのさん
実は、兼松家には他にも信長から 判物や朱印状なども与えられていて、展示品の書状よりも前、永禄9年(1566) 信長の京都上洛計画があった頃、信長から兼松弥四郎の跡職【あとしき】(名田および諸買得)全て又四郎に与えるという判物も残ってるよ。小牧時代から信長には優遇してもらっていた事がわかるね。
おいでよ天下人の城展
でも、可愛がられたと言っても、「ぞうり」をもらうくらいだから、大名にまでは。
にのさん
天正4年(1576)には織田信長朱印状で近江国内に35石を与えると言う内容が書いてあるよ。信長が本拠地移動の度に同行し、その地で新しい所領を得てる事から信長家臣の中ではエリートだったと思うな。余談だけど兼松又四郎の初陣は桶狭間の戦いと言われているよ。その後、秀吉・家康に仕え、家康の没後は尾張藩主の徳川義直につかえたんだよ。寛永4年9月5日に86歳で亡くなったんだ。
次は【63】岐阜城伝織田信長居館跡出土品 山頂に住んだ信長と麓の公の空間へ
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道
三・小牧城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第二室)
展示番号62番
第1章 天下布武への道
三・小牧城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第二室)
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