岐阜城伝織田信長居館跡出土品 岐阜市教育委員会蔵
第1章 天下布武への道
三・小牧山城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第二室)
展示番号63番
信長時代の岐阜城の居館は千と千尋の温泉宿風?
発掘調査が進む岐阜城の麓の居館跡ですが、当時の宣教師が記録を残しています。読売新聞の連載「図解 信長の城」(6)から一部引用します。
岐阜城の信長に注目した別の人物に、ポルトガル人のキリスト教宣教師のルイス・フロイスがいる。
フロイスは、部下でさえ入れなかった岐阜城の麓の館(山頂部にも別に私的な館があった)に招かれた。信長は「ヨーロッパやインドの建築に比べると見劣りするだろうから、あなたに見せたものか躊躇(ちゅうちょ)したが、わざわざ遠くから来たのだから私が案内しよう」と言った。
フロイスは信長とともに内部を歩き、詳細な記録を残した。それによると館は次のように「4階建て」だったと読める。1階 絵画や屏風(びょうぶ)で飾られた約20の部屋と廊下の外にある4、5か所の庭園があった。
2階 女性たちの部屋。1階よりも美しい内装が施されていた。
3階 山と同じ高さで茶室が付いた廊下がある。
4階 3階と同様に正面からは城下町を見ることができる。そのほか、3階か4階から廊下を通って高価な宝物庫と茶室を見ている。こうした記述から天主(天守)のような建物で復元されることがある信長の館だが、実際はどうだったのか。
城郭考古学を専門とする千田嘉博・奈良大学長(51)(*肩書年齢は掲載時)は「驚くべきことにフロイスの記述と考古学の発掘成果が合致したのです。ただし、1棟の建物ではありませんでした。段々畑のように階段状に整地した4層からなる複数の建物を合体させた建物群だったのです」と説明する。
中を歩いているフロイスもどういった構造の建物なのかあまり分かっていなかったのかもしれない。この混沌(こんとん)とした建物のデザインは次の安土城にも受け継がれる。
次は【64】織田信長禁制写 信長が新たな支配者として与える安全保障書へ。
第1章 天下布武への道
三・小牧山城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第二室)
展示番号63番