7/15~9/10開催の企画展「天下人の城」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について徹底リポート!

「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜

展示紹介

【207~215】最後の名古屋城主 尾張藩14代徳川慶勝が撮影した名古屋城の生写真!

更新日:

偶数が前期と奇数が後期で入れ替わり展示されます

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
6 城の終焉(本館9)展示番号207-215 

原さん(小久ヒロ・絵)

400枚!全国で唯一無二の江戸時代の殿様が撮影した城内(立ち入り禁止エリア含む)の写真コレクション

これらの写真及びガラス原板は全国で唯一と言っても良い、江戸時代の現役の城内を写したもので、まとまったコレクションです。

これに類するのは、薩摩藩主・島津斉彬が鶴丸城を1、2枚程度撮影している程度で、他は明治以後や外国人カメラマンが外から城を撮影したものがほとんどです。

では、現役の城内、しかも普段一般武士が入ることのできない場所の写真が残っているのはなぜか。それは、これらの撮影者が藩主自身であったからです。

その人物こそが14代尾張藩主・徳川慶勝です。
兄弟には一橋家当主の徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬がおり、「高須四兄弟」と称されています。

10代藩主・斉朝から13代藩主・慶臧まで4代続けて11代将軍・家斉の近親が家督を相続する「押し付け養子」が続き、藩内の幕府への不満が高まっている中での、尾張徳川家血縁者である慶勝の家督相続は、家臣や領民たちに歓迎されました。
慶勝は、藩政改革に着手し、綱紀粛清・財政再建・軍備拡張を行い、また幕政にも積極的に関わりました。

安政の大獄で「引退」させられた35歳の殿様が没頭した趣味は「写真」だった

しかし、時の大老・井伊直弼が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを問いただしたことで、逆に隠居・謹慎に処されてしまう。これがいわゆる「安政の大獄」です。

慶勝は35歳という若さで藩主を退くことになりましたが、この江戸下屋敷での隠居生活で、慶勝は以前から関心を抱いていた写真研究に没頭するのです。

自ら薬品を調合するなど、慶勝の写真研究は趣味の域を超えていました。

桜田門外の変で井伊が暗殺された後、謹慎は解かれますが、嫡男の義宜が家督を相続したため、慶勝は後見として藩の実権を握ります。

その裏で写真研究も続いており、この頃から慶勝は名古屋城内を数多く撮影するようになります。

場所が特定できるものだけでも200枚近くあり、木や石灯籠など場所が特定できないものも同様に約200枚、合わせて約400枚の写真が現存しています。

殿様ならではのすごい名古屋城の写真

今回はその中から、名古屋城については6点が展示されます。

名古屋城二之丸御殿・天守写真 (アンブロタイプ写真ガラス原板)【207】、名古屋城天守・御深井丸東北隅櫓写真(アンブロタイプ写真ガラス原板)【208】、名古屋城天守・本丸南馬出多聞櫓写真(アンブロタイプ写真ガラス原板)【209】、名古屋城本丸東南隅櫓・天守写真(アンブロタイプ写真)【210】、名古屋城西之丸月見櫓写真(アンブロタイプ写真)【211】、 名古屋城二之丸黒門写真(アンブロタイプ写真ガラス原板)【212】

【207】【212】に写る二之丸は「御城」と称され、政務を執る場であった他、当主の居館であったため、通常撮影は許されなかった。つまり、撮影者が慶勝であったからこそ存在する写真です。

【209】は二之丸西鉄門の南より北側の天守を撮影した写真で、手前に写る本丸南馬出の多聞櫓の白壁が剥落しているため、城の管理が行き届かなくなった明治維新後の撮影と思われます。

【210】は二之丸御殿の塀越しに撮影した本丸東南隅櫓(辰巳櫓)と天守です。この櫓は、弘前城や宇和島城天守と同規模で、延床面積は両城をはるかに上回る巨大な櫓であり、また写真には明治に撤去された多聞櫓の一部が見えるため江戸時代に撮影されました。

カープ女子もびっくり?江戸時代の広島城

また名古屋城だけでなく広島城の写真も2点展示されます。

広島城三之丸櫓・天守遠望写真(アンブロタイプ写真)【205】、広島城三之丸南西土塁・南門付近写真(アンブロタイプ写真)【206】は、

慶勝が第一次長州征伐の総督として広島へ赴いた際に撮影されました。

総督として行動が制約されていたためか、宿所である浅野右近の屋敷から望める風景のみですが、計10点の写真が残っています。

広島城の写真では最古のものであり、城が機能していた時のものであるため大変貴重な史料です。

江戸城無血開城の「平和」は名古屋城主が作った

慶応4年、戊辰戦争が勃発し、慶勝は徳川一門、御三家筆頭という立場でありながら新政府側の味方につくという苦渋の決断をします。慶勝が「江戸へ行軍する新政府軍と戦わないように」と東海道沿いの諸藩へ命じたことで、江戸開城まで血が流れることはなかったのです。

明治以降も、名古屋藩知事を務めた後、北海道八雲町の開拓を推し進めながら、精力的に写真撮影を行ないました。慶勝の撮影した写真は明治期の東京を写したものが一番多いのです。

尾張徳川家の本邸から庶民の生活風景まで、江戸から東京へと移り行く当時の様子が分かる貴重な写真を残した、最高のカメラマンでした。

まとめ モネ

次は【216-219】 高須・今尾・犬山・岡崎城図 初公開!「陸軍省城絵図」明治5年に制作された全国の城の最終段階の絵図

参考文献
・編集:徳川林政史研究所(2014)『写真集 尾張徳川家の幕末維新:徳川林政史研究所所蔵写真』徳川 義崇監修、吉川弘文館
・編集:NHKプラネット中部(2010)『写真家大名・徳川慶勝の幕末維新-尾張藩主の知られざる決断』(財)徳川黎明会監修、日本放送出版協会
・徳川美術館(2013)『徳川慶勝-知られざる写真家大名の生涯-』

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第二章 巨大城郭の時代
七 城の終焉(本館9室)展示番号207-215

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