7/15~9/10開催の企画展「天下人の城」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について徹底リポート!

「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜

展示紹介

【216-219】 高須・今尾・犬山・岡崎城図 初公開!「陸軍省城絵図」明治5年に制作された全国の城の最終段階の絵図

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高須城図 陸軍省城絵図の内 「しろはく古地図と城の博物館」富原文庫蔵 初公開

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第二章 巨大城郭の時代
六 城の終焉(本館9室)展示番号207-215

 

原さん
これらも注目の出展品です。今回、初公開となります。
おいでよ天下人の城展
まさか、終了間際にまで来て、そんな貴重な資料が出るなんて!
原さん
明治5年、陸軍省築造局が、廃藩置県まで存続した城郭・陣屋の管理を移管されるにあたり、当時の全75府県に制作を指示しました。
おいでよ天下人の城展
へぇ。というか、75府県もあったんですか、明治維新直後の日本って。
原さん
そうして、各府県から提出された図面を元に、陸軍省は城の存廃を判断し、廃止が決まった城は、翌6年に大蔵省財産として払い下げられました。
存続とされた城も陸軍省用地として転用された為、多くの城ではその後、堀の埋め立てや、建築物、石垣の取り壊しや解体、材の転用などで往時の姿を失っていったことはご存じのとおりです。
おいでよ天下人の城展
よく残っている城でも、改変が多いというのは、そういうためなんですね。
原さん
本図《陸軍省城絵図》は一部、近代施設などが描かれているものの、城としての最終形態を示す図として初めて確認された絵図群なのです。
おいでよ天下人の城展
どれくらいあるのでしょうか。
原さん

群馬県安中市のしろはく古地図と城の博物館富原文庫に124枚を収蔵され、他に44枚が確認されています。
中国・四国地方の城は散逸して確認されていません。また、調査開始時に既に軍用となっていた城の図面は無いために関東地方の城は少ないという特長があります。

おいでよ天下人の城展
その中から愛知や中部圏の城を出展しているのですね。

小久ヒロ作成(グーグルマップに加筆)

高須城(岐阜県海津市)

尾張徳川家の分家、高須松平家の居城(陣屋)である。

高須城は、関ヶ原合戦後にこの地に封じられた、徳永寿昌(1549〜1612)によって整備されたと言われ、徳永氏、小笠原氏が城主を務めた後、一時幕府領となっていたが、元禄13年(1700)に尾張徳川家二代光友の次男・義行(1656〜1715)が封じられて以降、幕末まで存続した。

高須城の図は、数点の城下絵図が遺っているが、城内の詳細な絵図は本図が唯一である。

現在、市街地化によって、ほとんど痕跡を留めていないが、かつては大江川にのぞむ高台を「内郭」として周囲を総石垣としていた。

内部には御殿があり、この一部は現在、三重県桑名市の六華苑(旧諸戸邸)に移築されている。
また、岐阜県海津市歴史民俗資料館の館内に御殿の一部が復元されている。

今尾城(岐阜県海津市)

尾張藩の付家老、竹腰氏の居城(陣屋)である。

今尾は中世以来の要地であり、城郭を整備したのは、関ヶ原合戦後に封じられた市橋長勝(1557〜1620)と考えられる。

市橋氏転封の後、慶長13年(1608)より竹腰氏が今尾を領した。

本図は初めて確認された今尾城(陣屋)の詳細図である。
一部に石垣は設けられているが、西の揖斐川にのぞむ土塁を主体とした城であった事が判る。

現在、主郭があった今尾小学校内に大手道西脇の土塁状の土盛りと、大手枡形広場、堀の痕跡である水路が部分的に遺っている。
図に描かれている大手筋の辰巳門が、城の南東部にある西願寺の表門として移築され現存している。

小久ヒロ制作(グーグルマップに加筆)

犬山城(愛知県犬山市)

美濃・尾張国境の木曽川渡河点に位置する城の為、中世以来争乱の場となった城。
江戸時代は尾張徳川家の付家老、成瀬家九代の居城となった。

一国一城令の対象外として江戸時代も存続が認められた城で、現存する国宝天守の他、12基の櫓を備え外枡形の外郭門と広大な外郭を有する堅牢な城郭であった。

図には中門外の西御殿を「旧県庁」とし、朱書きで軍営候補の建物に番号がふられている。
現在、主要部の曲輪や、黒門跡から西にかけての空堀がよく遺っており、外郭は内田門周辺の堀が一部池として遺っている(名鉄犬山ホテル内)。

また、移築建築物として、
・松の丸裏門が、常満寺山門(犬山市)
・搦手門の内田御門が、瑞泉寺山門(犬山市)
・二の丸矢来門が、専修院東門(扶桑町)
・第一黒門が、徳林寺山門(大口町)
・松の丸門が、浄蓮寺山門(一宮市)

などに移築され現存している。

他にも、犬山城の城門と伝わる門が、運善寺(一宮市)に、犬山市の個人宅に門が、江南市の個人宅に宗門櫓が移築され蔵として使われている。

岡崎城(愛知県岡崎市)

岡崎城は、家康の祖父・松平清康(1511~31)が享禄4年(1531)頃に西郷氏の城を改修して居城とした。
以降、松平氏の本拠となった城である。

家康が秀吉によって関東へ移封された後、天正18年(1590)に城主となった田中吉政(1548?1609)によって拡張整備される。
この時に、石垣を用いた城郭に整備された。
また、城下町を堀と土塁で囲む総構えへと大幅な整備も行われ、郊外を通っていた東海道も城内に引き入れるなど、近世岡崎城下町の基礎が出来上がった。

この時の岡崎城下町整備に、河内、和泉から石工が招集され整備が行われた。
石工はそのまま岡崎に移り住み、この地で採れる良質な花崗岩を使って石工品を作る文化が根付き、現代の伝統工芸品・岡崎石工品へと繋がっている。

関ヶ原合戦後に入封した本多氏によって天守が建てられた(再建)。

本図は二之丸に岡崎県庁が置かれていた時代の図である。一部軍用地となっているが、廃藩置県後も天守の他、平櫓、多門櫓を含めて20基以上の櫓が現存していた事が判る。

現在、外郭部は市街地化されたが、本丸を中心とした曲輪は岡崎城公園として保存され、空堀や石垣が良好に遺っている。また南を流れる菅生川の川端には、最長級・約400mもの堤防を兼ねた石垣が遺されている。

移築建築物としては、
・裏門であった北曲輪四ツ脚門が、額田町の民家に、北門(二の門)が宿縁寺(西尾市)に、念佛堂赤門が謁播神社神門(岡崎市)へ移築され現存している。
・慈光寺(岡崎市)には移築されたと伝わる太鼓楼がある。

東曲輪であった岡崎城公園駐車場の南東隅に建っている東隅櫓は、2010年に再建された。
・この櫓も岡崎城が解体された明治初頭まで存在していた。
・望楼型二重櫓で漆喰総塗籠。
・図面などの史料が無いため、望楼型二重櫓として唯一現存している松山城の野原櫓の構造などを参考にして建設されている。

まとめ・るーちん

次は【220】田丸城図 安土城のプロトタイプの天守の可能性も指摘された注目の城

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第二章 巨大城郭の時代
七 城の終焉(本館9室)展示番号207-215

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