24 今川義元感状(写) 御宿藤七郎宛 徳川美術館蔵
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第一室東側)
展示番号 24番
第1章 天下布武への道 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第一室東側)
展示番号 24番
原さん
今川義元の三河侵攻で、織田信秀の長男、織田信広が守る安城城(愛知県安城市)を落城させた際の感状(賞状)です。
おいでよ天下人の城展
また御宿さん!この武将、すごいですね。
原さん
安城城は元々、安城松平氏の居城でしたが、弱体化につけいり織田信秀が攻略、城代に信広を置いていたが、天文18(1548)年11月に今川義元が攻め入って落城させました。この時、信広は捕虜となり、竹千代(家康)との人質交換で織田に返され、竹千代は駿河に送られました。
*信広は、織田信秀の長男であるが庶子で相続権はなかった。信長の異母兄(庶兄)。織田一門として軍事的にもそれなりの地位にいたが、安城城の攻防戦で人質となって暗転。織田家に戻ったが、美濃の斎藤義龍と組んで謀反を企てるが失敗、信長に赦免されて以降は信長に仕える。伊勢長島一向一揆攻めにて戦死。
おいでよ天下人の城展
安城は、岡崎の前に松平の本家があったところだそうですね。大河の矢作川を挟んで、東に岡崎、西に安城となっています。矢作川の河岸段丘上に南北にのびた丘の先端を城にしたとのことです。今は安城歴史博物館が隣にあります。切り岸がよく残っていますが、結構、高低差がありました。
*安城と安祥 清須と清洲のように、戦国時代は「安城」、江戸時代は「安祥」でした。
原さん
感状には城攻めの様子がよく記されています。「夜に諸軍ぬきんじて城に忍び着き」から夜間行軍をして、「大手の剣先を遣り手をこうむり、塀二三間引き裂きで」と、なにかを引っかけて塀を倒した様子が分かる。(粉骨感悦なり)土塁ぎわにおいて、互いに土石をあたられ走る等、門を焼き崩し、ここにして敵は『小口』を捨て、翌日はついに落城した」とあります。
おいでよ天下人の城展
結構、詳細に書かれているんですね。
原さん
土塁際においては、矢はもちろんですが、石なども投げて走り回りと戦の様子が描かれており、門を焼き崩したことで小口を捨て、とあります。この『小口』はおそらく『虎口(こぐち)』で、元々は小口と記していたものが、後に勇ましさから『虎口』と当て字されるようになったのではないでしょうか。実際に城郭の出入り口である虎口は狭い作りであり、小口です。戦いの様子を思い浮かべる資料としても味わってください。
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第1章 天下布武への道 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第一室東側)
展示番号 24番
第1章 天下布武への道 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第一室東側)
展示番号 24番