7/15~9/10開催の企画展「天下人の城」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について徹底リポート!

「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜

展示紹介

【46】刀 名物 義元左文字(宗三左文字)信長が討ち取った義元から奪った記念に名前を彫った愛刀

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【46】刀 金象嵌銘 永禄三年五月十九日 義元討捕刻彼所持刀/織田尾張守信長 名物 義元左文字 後期8/16~

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第2章 清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)
展示番号 46番
おいでよ天下人の城展
今回の目玉展示の一つですね。
原さん
桶狭間合戦の際に、織田信長が分捕った今川義元の愛刀です。 元は、四国の三好政長入道宗三(1508~49)が所持していたことから、三好左文字(みよしさもんじ)、宗三左文字(そうざさもんじ)とも呼ばれています。政長から、武田信玄の父・信虎に贈られ、のちに信玄の長女が今川義元に嫁ぐ際、婿引き出として贈られました。
おいでよ天下人の城展
刀剣は武家社会においてとてもスタンダードな贈答品だったのですね。
原さん
『信長公記』には「今度分捕に、義元不断さゝれたる秘蔵の名誉の左文字の刀めし上げられ、何ケ度もきらせられ、信長不断さゝせられ候なり」とあり、信長はこの刀を手に入れると、何度も試し切りをさせ、自身の差料(さしりょう、普段、実際に腰に差して用いた刀剣の事です)にしました。
おいでよ天下人の城展
飾るものではなく、信長の腰にあったものなんですね!
原さん
信長は、この刀を自分に合ったサイズに短く磨り上げさせ、義元を討ち取ったという経緯と年期を、戦勝の記念としてこの刀の茎に金象嵌(きんぞうがん)で入れさせたと言われています。ただし、桶狭間当時、信長はまだ尾張守ではなく上総介を名乗っているため、桶狭間直後ではなく、もう少し後になって入れさせたものと思われます。
おいでよ天下人の城展
討ち取った記念を彫ってしまうなんて、すごく信長の個性が表れていますね。

信長→秀吉→家康と天下人のバトンリレーの末、信長をまつる建勲神社へ

原さん

義元左文字は、信長の死後、豊臣秀吉へと伝わりました。秀吉へと伝わる経緯の詳細は不明ですが、一説では、本能寺の変後に松尾神社の神官の手に渡り、それが後に秀吉に献上されたとも言います。その後、秀吉から秀頼へと伝わり、関ヶ原の戦いの後、秀頼から徳川家康へと贈られました。大坂の陣では、家康はこの刀を帯びて出陣したとも言われています。

おいでよ天下人の城展
いわば、天下人の刀!
原さん

その後、二代将軍秀忠、三代将軍家光へと伝わりました。以後この刀は、御三家へも下賜されることなく、将軍家の重宝として代々の将軍へと受け継がれます。明治になり、織田信長を祀る建勲神社が創建されると、徳川宗家から同神社へ奉納されました。

次は【47】【48】名古屋城本丸御殿の黒木書院の襖絵 清須城から移築した遺品

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第2章 清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)
展示番号 46番

 

義元左文字をもっと詳しく!

左文字は、筑前(現在の福岡県西部)の刀工で、南北朝初期に作刀したと考えられています。
銘に「左」と切ることから、「左(さ)」または語呂を良くして「左文字(さもんじ)」と呼ばれます。
当初、左文字は九州の伝統的な、どちらかというと地味で素朴な作風でした。しかし、ある時を境に作風が一転し、当時の流行の最先端である、相州正宗風の明るく冴えた、それまでの九州物に見られない垢抜けた作風となります。

室町時代の刀剣書『能阿弥本銘尽』(1483)には「左文字は鎌倉五郎入道が弟子、隠岐浜の左衛門三郎と云う者なり」とあり、「左」は「左衛門三郎」の略であり、五郎入道、つまり、名工・五郎入道正宗の弟子であるとしています。
この説は江戸時代まで引き継がれ、正宗の弟子の中でも特に優れた弟子として「正宗十哲」の一人に挙げられています。

ただし、筑前(現福岡県)と、正宗が活躍した相州鎌倉(神奈川県)とでは距離が離れていることから、左文字が実際に正宗に師事したかどうかについては疑問視する声もあります。
最近では、足利尊氏の軍勢が九州へ落ち延びた際に、関東武者の指料や都の洗練された刀剣が大量に持ち込まれ、それらに感化されて、左文字は当時流行の相州の作風を、自力で習得したのではないか、とも言われています。

左文字の作風・義元左文字の特徴は?

◇姿について

さて、この義元左文字ですが、随分とがっしりとした姿をしています。この姿は、南北朝時代の長い太刀を、短く磨り上げて、打刀に直したものに見られる特徴です。
南北朝時代は、武器が全体的に大型化していった時代です。その分、刀身の身幅も広くなり、これを磨り上げて短くすることで、より身幅の広さが強調された、豪壮な姿となるのです。

織田信長・豊臣秀吉の時代には、古名刀の太刀を元の茎が無くなるくらい短く磨り上げて、打刀に直して用いることが流行しました。(太刀は腰に吊るし、打刀は腰に差して用います。一般的に打刀の方が太刀に比べて短くなります)

そのため、南北朝時代の太刀で、元の姿を保っているものは極めて少なく、左文字の太刀で元の茎の銘が完全に残っているものは、ふくやま美術館に寄託されている、国宝の江雪左文字のみと言われています。
義元左文字は、今川義元の腰にあった時には、刃の長さが2尺6寸(約78.8㎝)の太刀であったとされますが、信長はこれを2尺2寸1分(約67㎝)まで切り詰めて、打刀にして用いました。

左文字は、長い刀剣での在銘(茎に製作時に入れた銘が残っていること)は極めてまれですが、短刀は在銘の物が比較的多く現存しています。
南北朝時代は短刀も大型化した時代ですが、そんな中、小振りな短刀を作るのも左文字の特徴のひとつです。
左文字の短刀の中では、刃の長さが8寸9厘(約24.5㎝)ある、名物の小夜左文字が最も大振りとされています。
左文字の短刀は、刃の長さが7寸5分(約22.7㎝)前後のものが多く、小夜左文字のように8寸を超える物は珍しく、あまり見られません。

◇刃文について

義元左文字は、江戸時代の1657年の明暦の大火で焼け身となってしまったため、残念ながらオリジナルの刃文は残っていません。
明暦の大火は、刀剣史における大事件のひとつで、義元左文字を含む多くの将軍家の蔵刀が焼失・焼け身となってしまいました。この時焼け身となった刀剣は、将軍家のお抱え鍛冶である江戸三代越前康継によって再刃されています。

越前康継は、初代は出品番号101番の鯰尾藤四郎を含む、大坂城落城の際に焼け身となった名刀を再刃したことで知られる、慶長期を代表する名工のひとりです。
最初、下坂市左衛門と称し、家康の次男で越前(福井県)の大名である結城秀康に仕えました。
のちに、秀康の推挙により将軍家のお抱え鍛冶となり、家康から「康」の一字を賜り「康継」と改名しています。
二代までは江戸と越前を行き来して作刀していましたが、三代からは江戸と越前に家が分かれ、其々の地で作刀しています。

さて、現在の義元左文字ですが、刃文は直刃(まっすぐな線上の刃文)仕立てで、帽子(切先部分の刃文)は、直ぐに丸く返る物です。古い記録を見ると、元々の刃文は、互の目に、帽子は乱れ込んで尖った突上帽子であったようです。この「先の尖った帽子」は、左文字の特徴のひとつで、左文字の乱れ込んで尖る帽子を、特に「左のさばき頭」「左文字帽子」等と呼んでいます。

【主な参考文献】
・辻本直男(1970) 『図説刀剣名物帳』 雄山閣出版
・本間薫山編(1979) 『昭和大名刀図譜』 日本美術刀剣保存協会
・田野邉道宏著(1999) 『名品刀絵圖聚成』 大塚巧藝社
・佐野美術館・徳川美術館・富山県水墨美術館・根津美術館編 (2011)『名物刀剣 : 宝物の日本刀』 佐野美術館
・渡邉妙子著(2012) 『名刀と日本人 : 刀がつなぐ日本史』 東京堂出版

まとめ・悠

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【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
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展示番号 46番

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