田丸城図 陸軍省城絵図の内 「しろはく古地図と城の博物館」富原文庫蔵 初公開
第二章 巨大城郭の時代
六 城の終焉(本館9室)展示番号207-215
探訪 東海百城 信長の次男1より引用します。
田丸城は80年に炎上して、信雄は居城を松ヶ島城(三重県松阪市)へと移す。しかし、信雄は、その後も84年の小牧・長久手の戦い後に南伊勢を秀吉へ割譲するまでは、田丸城を重要拠点として様々な改良を加えていることがうかがえる。
千田さんが信雄の力量として高く評価するのが、二の丸から本丸へ接続する出入り口だ。
二の丸から攻めようとする敵は、これまで見たことのない防御施設を目の当たりにすることになる。深い堀には橋がかかり、その先には門を隠す形で塀を巡らせる。さらに門も「2階建て」の櫓やぐら門で2階から火縄銃や弓矢で敵を迎撃できる。
この出入り口の形は、防御と攻撃を兼ね備えた松坂城(同市)などの城でみられる「枡形ますがた」の原型と千田さんは指摘し、「非常によく考えられています。おそらく小牧・長久手の戦いの時に秀吉の圧力に対応するために、知恵をしぼった結果でしょう」と言う。
「信長は、田丸城の築城ぶりで信雄の力量を測ったことでしょう。そして、信長が完成したこの城を見て『愚かな息子』と評価したとは思えません」と宮武さんは太鼓判を押した。
伊勢なのに和歌山藩の飛び地の城に
南伊勢の要衝地に築かれた伊勢国司・北畠氏一族の砦城で、天正3年(1575)に北畠氏の家督を継いだ織田信長の次男・信雄が居城とし、大規模な改修を施した。
その後、稲葉氏などを経て元和5年(1619)に紀伊徳川家領となる。
紀伊家領となってからは、城には城代が置かれ、紀伊家の重臣・久野氏が幕末まで城代を務めた。
田丸城図には詳細に城内の建物が書かれていて、幕末まで二ノ丸(「延宝三年(1675年)出来」)と三ノ丸(「嘉永五年(1852年)壬子四月出来」と記載)に建物が遺されていた事が判る。
現在、中学校建設などで三ノ丸は削平され、大手道は付け替えられているが、本丸、二ノ丸、北ノ丸の石垣や周囲の土塁、堀が良好に遺っている。
また、三ノ丸御殿の一部と富士見門が城内に再移築されている。
技巧的な曲輪や虎口構成を含め、城域がほぼ完存している希有な城である。
移築建築物として、
・転輪寺(明和町)の山門として城門
・世義寺(伊勢市)の山門として城門
・田丸神社(玉城町)の倉庫として蔵2棟
・明和町の民家に門と塀などが移築されて現存している。
まとめ るーちん
次は【221,222】名古屋城天守金鯱鱗破片・旧本丸御殿銅瓦 炎上する名古屋城天守の最後から城の未来を考えた
第二章 巨大城郭の時代
六 城の終焉(本館9室)展示番号220