実隆公記写(さねたかこうきうつし)
第1章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第一室東側)
展示番号 5番
公家である、三条西実隆(さんじょうにし・さねたか)による文明6年(1474年)~天文5年(1536年)までの日記。
永正二年(1505年)に那古野に関する記載がある。
『今川氏の管理する井戸田(現在の名古屋市瑞穂区にある地名)などにあった禁裏御料の年貢が朝廷に未納であり、最終的にこれらの土地は知多半島の水野氏の所領となった。』とある。16世紀初頭には那古野今川氏の勢力が衰えていたことが推定される資料。今川氏の没落に関する資料です。
氏親は、伯父新九郎の援助を得て、明応三年(一四九四)秋遠江への侵入を開始し、文亀元年(一五〇一)には、遠江守護斯波氏・信濃守護小笠原氏の連合軍を破り、信濃・三河の国境まで勢力を浸透させた。永正元年(一五〇四)には新九郎を助け関東に出兵したが、翌二年から同五年にかけて三河に侵入し、松平長親をおさえて、同年七月遠江守護に任ぜられた。その後遠江平定をめざし、尾張守護斯波義達と結んだ国人大河内貞綱・巨海新左衛門らと戦った。同十四年甲斐武田氏の内紛に乗じ出兵し、その背後をつかれ危機におちいったが、連歌師宗長の働きで危機を脱し、同年八月十九日引馬城を攻め、大河内・巨海を滅ぼし、斯波義達を捕えて尾張に駆逐し、遠江を完全に平定した。(国史大辞典、「今川氏親」より引用)
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第1章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第一室東側)
展示番号 5番